武装解除

放送大学の公共哲学の教科書で田中智彦氏の書いた「生命・身体と公共性」に印象深い内容が書いてあった。

 

そして倫理が法=権利に還元されるとき、言い換えれば、「生命倫理」の名のもとに行われる公共の議論が、技術的な可能性と安全性の他にはもたないとき、私たちは倫理それ自体を抹消して、しかもそれをあたかも倫理的なことであるかのようにみなしながら、「生政治」の前にいわば自らすすんで「武装解除」することになる。(「公共哲学」第9章  生命・身体と公共性 p150, 放送大学大学院教材)

 

自分が安楽死の議論で感じる説明しがたい気持ち悪さはおそらくここにあると思う。「生きること」が今後バイオテクノロジーにおいてさらに変化し、人工知能において「人間であること」すら変化していくとするなら、近代において行われ、現代につながる生政治は、さらにもう一段階違う方向に進むのではないだろうか。それはおそらく生権力ではない方向なのではないかと自分は感じている。生きることがより物質の側に近づいていくなら、人口がもはや人間である必要がないとするなら、権力はまた違う方向へ網の目を伸ばしていくのではないだろうか。

 

 

 

幻のプログラマを求めて

1927年、リップマンは「幻の公衆」という著作を書いている。リップマンは民主主義の根幹である公衆とその公衆により作られる世論が、我々が考えるほど賢くも賢明でもないことを指摘する。特に、この世界がいよいよ大きなものになり、社会が「大社会」となったとき、古き良きジェファソン的な民主主義は限界を迎える。人々はもはや経験から物事を判断できる力を失い、イメージとステレオタイプに基づき、自己の主張のみを通そうとする。そこには歪んだ世論があり、新聞はもはやそのステレオタイプを強化するにすぎない。

ここに、私は幻のプログラマを見る。プログラマの極めて牧歌的な社会、それはプログラマの意思がコードを通して明確に伝わり、もしくは目の前にいるあの豚野郎に直接口頭で話をすることでなりたつ小さな社会があった。我々は少なくともプログラミングという一つの行為において、共通の理解があり、自身の判断でコードを修正することも可能であったのだ。プログラミングを行うものの増大と、巨大プロジェクトがその小さな社会を壊すまでは。

今では、何が良いコードであるか、このコードを修正することで何が起きるかを判断できるプログラマは職場から消えてしまった。あるのはスパゲティのように複雑化した(誰かが遺していった)巨大なコードがあるだけである。皆が勝手に自身の持ち場でのみ仕事を完遂しようとし、あちこちで炎が上がる。そこにはもはや以前にいた良心のある知識豊かなプログラマはいない。いるのはただのコーダーである。

デューイならそれでも、コードの影響の及ぶ範囲までそのコードに関与したものをプログラマと再定義し、コードとの相関関係によって新たなプログラマ像を提起するだろう。彼は言う「トランザクション」と。

これを救うのはGitHubなのかキータなのか、神のみぞ知るであろう。

 

 

 

匂い

「声」が届けられたとして、私がそれに「声」で返すとする。相手はそれでここに応答が成り立っているし、私が応じていたのだと思うだろう。

場には幾つかの不確定な要素がある。その一つとして匂いがある。匂いは今では信号としての役割を持っていない。しかし、私たちの「会話」の中の全体に掛かるバイアスとして匂いが作用している可能性はないだろうか。

匂いは場をゆっくりと漂う。それは何かかから発していることもあり、複数の様々なものとの複合として場の匂いを作っていることもある。落ちつかせる匂いや、郷愁を誘うような匂いもある。いずれも急激な変化はしない、ゆっくりとその場にあり、場の雰囲気を作るものだ。

鉤括弧で括っている「声」、「会話」を例えばチャット上のメッセージと考えてみる。その場に匂いとして対応するものはあるだろうか。ざわめきでも、水面の煌めきでも表現しえない機能として。

 

 

 

 

最近気になっていることがある。窓の向こうから母親の声がするのである。おそらく娘に対して毎朝その声が聞こえている。

食事の用意ができた。早くしなさい。

階下にいるのだろうか。

私はそれを光のうっすらとさしているカーテン越しに聞いている。

 

 

メール

*1

この手紙はだれに届くのだろう。そう考えて宛先をわざと隠す。ボトルに入れたメールを海へ流したとき、そのボトルに入っている手紙には必ず書いた人のアドレスが入っている。誰かに届いて欲しいとつぶやいた人は、その人が誰であるかを本当は認知して欲しいのだ。そのボトルの中にはなにが書かれていようと、意味は一つしかない。「私がいます。」この私は匿名ではない。

 

*2

匿名であること、宛先がわからないこと、送り主がわからないこと、これらはそれぞれが異なる意味を持っている。メールが物理な意味合いが薄まってくると、出せる数もまた変わってくる。WEBのサービスも物理世界でのサービスもみな、なんらかのメールの亜種にすぎない。

*3

誰も配達していないのにメールが届くことをもはや疑う人はいなくなった。電磁場という不可思議な存在もなぜかその意味を問う人がいないままに受け入れられた。おそらく太陽がギラギラと頭上にある奇妙さと同じ程度には現代の人々には受け入れられてしまったのだろう。息を吸って吐くような自然さとして。意識しなくなって背景となったものとして。決して生活の中にはでてこないものとして。そして、たとえ気づいたとしても。

*4

いつでも私たちはメールの中身にしか興味がないことになっている。そこには誰かの噂や、今日買った商品の注文票、広告、生活の記録、悩み、告白、そういったものが書かれている。そういったものが書かれていることになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑感

空という言葉は星に住まなかったら思いつかなかっただろう。あるいは生命。

たとえば最大という言葉、この概念すらすでに私たちの宇宙への見方が前提としてある。

これは、もっと違うものや見方が超えたところにあることを示唆しているようにみえる。

しかし、「見方」も「超えた」も「違う」も「示唆」も恐らく私たちの見方が前提としてある。

 

 

多様性

1

多様でありつづけることは理想でしかないのだろうか。もしかすると最終的には血が混じり合うことでしか問題は解決しないのではないか、と思う時がある。

そこに残るのは多様な文化ではなくひとつの文化とその地域的な差異に過ぎなくなる。

多様さを保ち続けるには何が必要なのだろうか。それは壁となるものだろうか。それとも生まれ出る泉のような多様さを生み出す源だろうか。

多様な文化を認めることが前提の社会の幾つかは必然的に多様であることの問題に直面する。

多様であるという概念すらないままに多様であるような社会があるとすれば、それはシステムの側に組み込まれた多様性なのかもしれない。

 

2

環境自体に遺伝に対応する概念があるとする。それをバズワードかもしれないがミームと呼ぶとする。多様さを少し安直に「自然の生き物は多様ではないか」というところから考えてみようとしている。

なぜ、自然に生きている生き物は多様なのだろう。この多様さを、例えばミームからできる「ヒト」に移し変えることはできないだろうか。この「ヒト」は生身の人間とは限らない。

3

いつしか、多様な「ヒト」が織りなす社会の中で、生身の人自体はいらなくなるかもしれない。人間は絶滅しなくとも文化単位では何度も消滅している。今後は文化は消滅せずに人間が消滅するという可能性もある。

 

4

エネルギーを奪い合い、生き残ったものが子孫を残すというのは一種のルールのあるゲームだろう。この自然にできた命のやりとりは、人において貨幣のやりとりに変わったのだとする。多様性がこのゲームの戦略の結果とするなら、「ヒト」の多様性もマネーゲームの戦略の結果として成立するのではないだろうか。そこには新たな「シゼン」があって、「ミドリ」に包まれた広大な「ダイチ」が拡がっている。

 

 

仮想化

1.

人間は自然の摂理のままに生きるべきであるとする。ここでいう自然とはなんのことだろうか。おそらくこの現象界のことを指していると思われる。

私たちは還元してしまえば古くから言われているようにアトムから構成されていて、このアトムは物理法則で記述される世界に住んでいる。そう私たちは思っている。

2.

「アトムは記述されている。」のだった。このアトムは「物理法則」で記述されている。

ではアトムは記述される姿のまま実在しているのか。記述される「姿」とは何を指しているのか。

3.

食べるという行為も、味覚や喉越しのようなものは仮想なもので置き換えられるのだろう。ここで仮想といっているものは、模倣されたということを意味するのなら、一体何を模倣しているのだろうか。味覚だろうか。より根底にある物理法則だろうか。

4.

仮想化されているものの最初は言葉の代わりとしての文字だったと思われる。次に音だ。

今、視覚がそれに加わろうとしている。

5.

誰もがインターネットの階層の下にある層に興味をもたなくなるように、もしくは半導体の基盤のようなものに一人一人の物理的な肉体がなるのだとしたら。その肉体に興味をもたなくなることは不思議でもなんでもないことだ。

その手触り、風の囁き、すべてがむしろ仮想の側にあるようになるのだから。肉体の側はむしろ、私たちの皮膚の内側に流れている血や内臓のような見てはいけないものになる。

 

 

 

拡散する私

自分が離散しているというイメージは、あまり普通ではないかもしれない。いつも自分というものがあって自分の意見を言い、的確に自分の意見や感情を話せることが普通のあり方のような気がしている。けれども、自分にはそれができるときが少ない。

私にとって自分はつねに複数が揺らいでいるような状態だ。なのでいつ突然自分に何かを振られたりしたとき、自分は的確に自分の状態を伝えることも自分の希望を伝えることもできない。反対のことを言っているつもりはないが咄嗟にでたことばはつねに私が言いたいこととは違う、そういった思いだけが残る。では私が本当に言いたいことはなんだったのか、と問うと、また私は揺らいでいく。問われた言葉だけが脳内をコダマしていく。「お前は何がしたい。」「お前は何が言いたい。」

そうして私が拡散していくとき、私は様々な人々に遭遇する。拡散した私はそこで様々な人とその拡散に応じたやり取りをかわしている。拡散した私はそれぞれの感情と思考と趣味を持ち、それぞれの場所で人々と話し、気持ちを分かち合い、行動する。しかし、私は拡散しているのだ。それは私の拡散された姿の一つだ。その拡散が元にもどったとき、そうした人間関係そのものが、元の私にかえってくる。そこで私は途方にくれる。私は何をしたいのだろう。私は何を感じているのだろう。私はどこへ行こうとしているのだろう。

本当の私というものがもし幻想であるとすれば、私が心地よいものも、私が好きなものもまた幻想だろう。しかし、それを認めてしまうと、私は何をしてもそれが不完全に不十分にしか感じなくなってしまう。それを認めないと、本当の私が私ではないどこかにいることになり、今の私が心地よいものも束の間の気の迷いのようなものになってしまうことを恐れている。

確固たる私というものは何によってもたらされるのだろうか。それは役割だろうか。それは生き方だろうか。それは決断だろうか。みな、何かのきっかけで、人生のどこかで確固たる私を掴み取っているのだろうか。そしてそれは本当だろうか。

 

 

 

 

 

感情

感情はそれぞれのからだのどこからくるんだろう。そのどこかはもしかするとバラバラなのかもしれない。喜び、怒り、哀しみ、楽しさというものが一つの「感情」という言葉で表されるのが本当はおかしくて、バラバラのものを無理に一つの言葉で書いてしまったということはありえないだろうか。

 

たとえば、「イライラ」って喜怒哀楽のどこに入るのだろう。怒りのような気もするが少しズレている気がする。むしろイライラするから何かのキッカケで怒ってしまうように思える。たとえば、「心配」は喜怒哀楽のどこにも属してないようにみえる。感情の手前にあるイライラ、ソワソワといったものと喜怒哀楽は原因と結果みたいな関係なのだろうか。

 

感情はそれだけではうそでもほんとでもないし、良いことでも悪いことでもない、美しくも醜くもない。それぞれの感情があったりなかったりするものだとしたら、もっと別ないくつもの軸を付け加えるものなのかもしれない。