意味

夏である。日本の夏はお盆とか終戦記念日とか過去を振りかえる行事が多い。照りつける陽射しで視界が閉ざされるし、多少動けるのは涼しくなった夜だけで、耳は蝉の声で塞がれていて、どうしても朦朧としながらぼんやりと自分一人と対話している気分になる。あれから日本はずっと終戦で、先祖の霊とともに蝉の声を聞きながら花火を見上げている。

最近、本を読んだり対談を聞いたりしていて、意味を問うことがやはり重要なのだなと思うようになってきた。自分もそうなのだが、意味ということが話題に出た瞬間に、誰かが「意味なんてないんだよ」というのが当たり前になってしまっている。そうではないときはもはや意味という言葉すら野暮なものか、話題に出してはいけないもののようになっている。働くことも、家族と過ごすことも、愛することも、食べることも、その意味なんて聞いちゃいけないのだ。ただ、その事態に満足することを皆求めているように思える。口には出さないがそれが大人の態度なのだと言おうとするかのように。人はこれを虚無感と呼ばない。決して口に出さない。

何の意味があるかを問うことには大まかに二種類ある。普遍的な意味と自分にとっての意味だ。意味が言葉で表されるものなのか、それとも一般に言葉と無関係であるのかは僕にはわからない。このどちらも重要だと思うがここではさしあたり自分にとっての意味を問うことを考える。自分にとっての意味ということは他人にとっての意味ではない、例えば今日漠然と会社に行ったことについての自分にとっての意味だったり、誰かと話したことにとっての自分にとっての意味だったり、あるいは自分が生きていることの自分にとっての意味だったりする。(逆にそこで「意味がある」とした場合、どのような意味があるのかを表現することってできているだろうか。)

自分で周りの物事に意味づけをしていくという行為は、自分を大切にしていることにもつながると思うし、比較的ポジティブな行為だと思う。「意味なんてない」というのは単に「科学的世界観において」、なのではないだろうか。

私たちは単なる有機体だし、物理法則に従って動いているだけの物体であるから。現代ではそれがわかってしまっている。つまり、科学的の観点から意味なんてないというのは自然なことだ。そういった事象に我々もっというと私がどのような意味を見つけていくのかのほうが、満足しつつ虚無を生きるより僕にはましな生き方にみえる。その先に意味を見つける行為に対する虚無感が待っているにしても。