武装解除

放送大学の公共哲学の教科書で田中智彦氏の書いた「生命・身体と公共性」に印象深い内容が書いてあった。

 

そして倫理が法=権利に還元されるとき、言い換えれば、「生命倫理」の名のもとに行われる公共の議論が、技術的な可能性と安全性の他にはもたないとき、私たちは倫理それ自体を抹消して、しかもそれをあたかも倫理的なことであるかのようにみなしながら、「生政治」の前にいわば自らすすんで「武装解除」することになる。(「公共哲学」第9章  生命・身体と公共性 p150, 放送大学大学院教材)

 

自分が安楽死の議論で感じる説明しがたい気持ち悪さはおそらくここにあると思う。「生きること」が今後バイオテクノロジーにおいてさらに変化し、人工知能において「人間であること」すら変化していくとするなら、近代において行われ、現代につながる生政治は、さらにもう一段階違う方向に進むのではないだろうか。それはおそらく生権力ではない方向なのではないかと自分は感じている。生きることがより物質の側に近づいていくなら、人口がもはや人間である必要がないとするなら、権力はまた違う方向へ網の目を伸ばしていくのではないだろうか。