拡散する私

自分が離散しているというイメージは、あまり普通ではないかもしれない。いつも自分というものがあって自分の意見を言い、的確に自分の意見や感情を話せることが普通のあり方のような気がしている。けれども、自分にはそれができるときが少ない。

私にとって自分はつねに複数が揺らいでいるような状態だ。なのでいつ突然自分に何かを振られたりしたとき、自分は的確に自分の状態を伝えることも自分の希望を伝えることもできない。反対のことを言っているつもりはないが咄嗟にでたことばはつねに私が言いたいこととは違う、そういった思いだけが残る。では私が本当に言いたいことはなんだったのか、と問うと、また私は揺らいでいく。問われた言葉だけが脳内をコダマしていく。「お前は何がしたい。」「お前は何が言いたい。」

そうして私が拡散していくとき、私は様々な人々に遭遇する。拡散した私はそこで様々な人とその拡散に応じたやり取りをかわしている。拡散した私はそれぞれの感情と思考と趣味を持ち、それぞれの場所で人々と話し、気持ちを分かち合い、行動する。しかし、私は拡散しているのだ。それは私の拡散された姿の一つだ。その拡散が元にもどったとき、そうした人間関係そのものが、元の私にかえってくる。そこで私は途方にくれる。私は何をしたいのだろう。私は何を感じているのだろう。私はどこへ行こうとしているのだろう。

本当の私というものがもし幻想であるとすれば、私が心地よいものも、私が好きなものもまた幻想だろう。しかし、それを認めてしまうと、私は何をしてもそれが不完全に不十分にしか感じなくなってしまう。それを認めないと、本当の私が私ではないどこかにいることになり、今の私が心地よいものも束の間の気の迷いのようなものになってしまうことを恐れている。

確固たる私というものは何によってもたらされるのだろうか。それは役割だろうか。それは生き方だろうか。それは決断だろうか。みな、何かのきっかけで、人生のどこかで確固たる私を掴み取っているのだろうか。そしてそれは本当だろうか。