消費するコンピュータ

ここ数年、人工知能が再び注目されている。人工知能は何度もブームがあった。例えば日本でも国家プロジェクトとして人工知能に巨額を投資して失敗に終わったこともある。1980年代に500億円を投入した第5世代コンピュータというものだ。この時の失敗は良さそうな高速な推論システムを作ってはみたもののそれを使うには大量の知識や経験から得られる知が必要であり、そもそもそういったデータを入力すること自体ができないという点が大きかったとそうだ。それをWebの時代になってビッグデータということであらゆる人間の経験や知識をなかば自動的に収集し分類することでそのような問題は部分的に方法がみつかりつつあるのだろう。もちろん処理能力の驚異的な進展もある。

このような時代において今一番皆が注目しているのは、産業革命のようなことがもう一度起こるかということだろう。この時代に機械が人間の単純作業を肩代わりするようになった。バベッジの発想も元は対数計算を計算士に分業させていた部分を機械に置き換えるという発想でコンピュータが発明されている。人工知能は単純作業ではなく恐らく認知の伴うような作業すら肩代わりするだろうと言われている。職業の大半がなくなるのではないかという予想もある。

さて、それを踏まえて私たちには何が残されているのだろうか。単純に考えると、人間に残されている仕事は人工知能にできないものに限られる気もしてくる。工業のようなハードからソフトへと今までも先進国の産業は変わってきた。すぐ思いつくのはサービス業とクリエイティブな仕事だろう。ただ、サービスについても大半の安価な労働は人工知能に置き換え可能だろう。すると置き換え不可能なものとは何だろうか、それは恐らく「置き換えたくない」ものなのではないだろうか。それは人間としての拒否の態度、いわば最後の抵抗ともいえる。

そういった人間が行うサービスといったものが高級なものに限られるとすると、そこに雇用は生まれるだろうか。わざわざ人間をたくさん使うことが推奨され価値を生む時代になるということも考えられる。日本のアイドルが48人で1グループのように、値段で勝負せず、人間が10人で行う美容室のような。いずれにせよ限られた一部の人にとっての贅沢になるはずだ。

ではクリエィティブなほうはどうか。とにかく大量の人間の職がなくなるのであるが、もし仮にそういった人たちがある意味で仕事から解放されたのだと考えると、彼らは何らかの芸術活動を研究活動をはじめたりはしないだろうか。暇というものもそういった役割をもつのなら悪いものではないのかもしれない。問題は全員が何かを作ったとき、一体誰がそれを鑑賞するのかという問題は残る。100億人のアマチュア芸術家がいたとして。

このとき生まれるのが「消費者としてのコンピュータ」ではないだろうか。彼ら消費者としてのコンピュータは金銭を所持しものを消費し、経済を回す一員に人間と同様に組み込まれるとともに、彼らアマチュアの芸術家達の作る作品をも消費する役割を持つのだ。ミラーの向こう側から「いいね!」を飛ばしてくる者が人間であるのか機械であるのかはわからないようにアルゴリズムによって計算されている。機械が人間にとってわるのではなく、機械が人間そのものになり、人間であったものが徐々に消えていくような、そのような形で人間が終わるのではないだろうか。アトムが好きな日本人はそういう意味で、本当の意味で終わりの人間であるのかもしれない