図式とかヒュームとか

数学、情報、哲学の初歩をいったりきたりしている。

 

圏論の図式

圏論の勉強会で色々と初歩的な質問をさせてもらった結果、図式のイメージが自分の中ではっきりしてきた気がする。図式はもともとは、圏の積のような特徴を普遍性から定義しようとすればごく自然にでてくるような概念だと思う。

圏の積なら任意の2対象をとってきたときに、そいつらへ射を延ばすようなやつらの中で必ず経由しくてはならないものが積であり、このやつらの中の間の対応を取り出すさいに、やつらってのは2点へ射をのばすようなやつってことと定義したいので、この2点を指すのに二つの対象を持つ離散圏からの関手を定義し、3点(やつらから一つとって、あとこの2点)でコーンというのを作って、そのコーン達(当然やつらの分だけある)同士の関係の圏を考え、そいつにターミナルがあれば、それが元の圏の極限であって、今は2点に対する積だよと考える。

で、今の離散圏を型と呼んで、この型と元の圏への関手を図式と呼ぶというような感じらしい。なんか極限の意味がすんなりわかった感じ。

この視点は驚きで少し世界がひろがった気がする。随伴も同じように理解したい。

集合論もそれ自身大変に自然や社会と密接なものだが、圏と関手いう特殊な関係性はさらに違う視点をもたらしてくれるようだ。

 

ヒュームの有機体論

放送大学の通信課題をやるために教科書の「哲学における生命概念」(佐藤康邦)を読んでいる。今日読んだのはヒュームの懐疑論に有機体論、生命についての思考が深く関与しているというくだり。以下はまとめてみたメモなので勘違い、誤読が多々あります。

18世紀のスコットランド倫理学は従来の倫理と異なり理性よりも感情を重視する点に特徴があり(フランシス・ハチスンやアダム・スミス)、それを倫理を越えて哲学一般の思考へと展開したのがヒュームであり、そこでは「理性は感情の奴隷である」と言及された。

ヒュームの懐疑論では因果、時空や物質、心身の同一性といった観念は単純印象とそれに対応する単純観念が想像力によって結合してできるものであるとされる(このあたりがまだよくわからない。単純観念と観念は後者が複雑なもの?)

例えば因果という観念は機械論には必要な観念であるが、これはヒュームによれば時間的に前の事象と後の事象が、「近くで」「続いて起こり」「必然的に」という要素で結合されることによって起こり、この必然性は起こっていることをたびたび目撃する人間の側に起こる信念(belief)であることから、因果というものが実際には人間の側の想像力が作り上げたものであるということらしい。

 

また、心というものは絶えず変化し続けるのに、なぜ私は自分の心が一つであると確心するのかという問題に対し、ヒュームはこれが有機体においても同様の問題があることを指摘する。有機体においてもそれを構成するものは絶えず入れ替わるので。このような視点はロックがすでに論じていたがヒュームにおいて異なるのはそれが目的論的に説明されることである。

 

例えば次のような説明である。船は個々の部品が入れ替わるが、船には共通の目的(海に浮かべて物を運ぶとかの)がある。個々の部品とこの目的を結びつけるのは「共感」である。誰の共感かというと我々の共感である。(つまりそれを我々がそれが船だと思っているからそれらの部品はその船の一部と思えるということか)

要するに、ヒュームにとって懐疑論と有機体論と目的論は密接に結びついている。これらの議論が世界の創造目的へ至る議論が「自然宗教に関する対話」(1779)である。

 

この論は三者(クレアンテス、デメア、フィロ)の対話からなる。世界は神が作った建築物であり、それは人が機械をつくるようなものと対応し、人が目的を持って機械をつくるように、神は目的を持って世界を作り、その証拠に自然に無駄がない(economy of final causes)というクレアンテスの神人同一説とそれに対して、神は完全で永遠なものであり人間とは根本的な隔絶があるとするデメアの説に対し、ヒュームの主張と思われるフィロの主張はそれ(自然に無駄がないといったもの)では神の目的を示せているとは思えないというものである。

フィロは、そもそも人間にだって目的(因)といったものを持っている事は示せるのかと問う。どこを見てみもそこには作用(因)しか見当たらない。ましてや神の目的等を知れるという説明にはなっていないことを主張する。

 

これは自然神学的な発想の否定であるが、ヒュームは物質的世界そのものに目的の内在を見いだす。物質的世界は秩序を持っているが、その秩序を自分自身が持っている。そしてこの事を想定するということが、それが神であることを想定しているということを主張しているのである。そして物質的世界にいるその自分自身として秩序をもつものとして生物(有機体)をとりあげるのである。

 

そしてヒュームは宇宙そのものと生物との類似性を考える。宇宙の絶えることのない循環、消耗と補充といったものは生物における自身の保存と対応する。つまり、宇宙には極めて濃密な「共感」があるとするのである。このようにして生物と宇宙、魂と神といった対応をみていくような、これは機械論のような外部から目的が与えられるものとは異なる、目的の内在するような物質観をヒュームは持っていた。

 

このような目的論的な問題はカントとの「独断のまどろみ」とはまた別の対立軸となっている(らしい)

 

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