神なき祈り

神を信じないものにとって祈ることは可能なのだろうか。

祈ることは神に対してだけだろうか。例えば、先祖の霊についての祈りといったものは祈りの対象は神ではない。

 

 

僕としては祈りとは向こう側にある神秘に向かっているのではないかと思っている。

例えば他人。他人に何かが伝わる事。これは神秘ではないかと思う。

伝わるかどうかすらわからないとしたら、その人が発する言葉というのは常に、祈りが込められているのではないか。

不確実なものに対する思い、不確定なものに対する思い、知らないことに対する思いといったものは神秘につながっていく。

僕たちはいつも色々なものを信じている。信じている対象への行為というのはつまるところ祈りなのではないか。

 

行為の一つ一つは祈りである。何に対して?、歩くこと、触ること、喋ること、世界に働きかけること。

(では、僕たちは本当に歩いているのだろうか、本当に触っているのだろうか、本当に喋っているのだろうか、

僕たちは何処を歩いているのか、今、本当は何を触っているのだろうか、誰に何を喋っているのだろうか。)

(考えようと思えばすり抜けていくこれらは「事実」としかいえない。これを僕達は信じていたのだ。なぜかはわからないけれど。)

 

神がいないのになぜか「ある」世界の奇妙さに震えてただこの世界の現象の向こう側に祈りを捧げる。((なぜか僕は知覚し、今ここに存在し、消えていく。)) (私たちはいつもカードが配られている。そのカードがなぜ配られるのかはわからない。)

 

世界は神なき祈りに満ちている。

 

 

 

分断される個人

普段は自民党を支持していないけれど「長時間労働を是正し、同一労働同一賃金を実現し、『非正規』ということばをこの国から一掃していく」という言葉には期待したいものがある。非正規な働き方が普通になる事での解消でも構わない。なぜなら本当の問題はレッテルにあると思っているから。

現在の日本では非正規は分断される。バラバラに分解され責任は剥奪され、分割された仕事を渡される。そしてここでの存在をあなたの存在にしてはいけないということが書かれていないメッセージとして渡されるのだ。なぜなら、そこでは私は単なる道具であり、道具としての人生なのであるから。

現在の自分の認識では非正規ではなくフリーランス、非正規ではなく正規の社員を目指すべきだろう。