自由戦略

自由が選択肢としてのみ与えられる時代にとっては大量の選択肢に足をとられない人、衝動を抑えられる人が強いことになる。

撹乱すること自体が目的の選択肢を選択肢爆弾と呼ぼう。自由というゲームの中で有効な戦略をつねにとるには、暴力を変換しなければならない。

殴ること、無法であること、道徳的であること、これらは同一の地平にある。(今やそれが自由という言葉もそこに投げ入れられることとなった。これは自由という言葉自体の意味をスライドさせていくことというもう一つのゲームが行われているということだ。)

((ゲームのルールに則ってゲームをすることの何が問題だというのだろう。それが自然であり、それが戦争であり、それが無法者の掟であり、それがビジネスだ。このような意見に極めて違和感を感じる。ゲームに従う理由は何故だろうか。理由のないルールに従う必要はあるのだろうか。))

 

 

 

 

 

ソクラテスの弁明を眺めて 2

「善導」と「 躾け」は原文では同じという指摘があり恥ずかしさに身悶えしている。

(ちなみに読んでいるのは岩波文庫の久保勉訳です。)

 

でもせっかくなので続ける。ちなみに以下も私が理解したところの作文であり、抜き書きの引用ではないです。実際はまどろっこしい問答になっています。引き出すところが重要なのだと思いますがまどころっしいのでまとめます。

 

メレトス:「ソクラテスは無神論者であり、若者に国家の神々を信じずに神霊を信じるように教えている。これは若者を腐敗させる。」

ソクラテスの弁明:「いや、神霊の働きを信じてるって言いましたよね。ということは神霊も信じてます。で、神霊を神々(か神々の子)と解釈してください。矛盾ないですよね」

 

メレトスは認めてしまっているが、神霊と神々の間の関係がそのようであるという理由もない。そもそも、ソクラテスが無神論者でないという証拠もない。

 

ところで議論では神霊の働きを信じることは神霊を信じていることになるとメレトスの同意を得ている。ここも同意するところではない気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソクラテスの弁明を眺めて

なぜか読み始めた。非常にもたもたした文章で確かに弁明しているなという気がする。

 

最初の弁明

 

メレトスの主張:皆、若者を善導(善良に導く事)しているのにソクラテスだけ腐敗させている!

ソクラテスの弁明:動物は多くのものから躾けられるより1人に躾けられる方が良いでしょ?

 

これは多くのものが腐敗させ、私こそが善導している、善導と躾けが似たようなものであるなら、躾は一般的に一人にやらせたほうが良いからだ、そして現に今、私一人がそうやって善導している事態なのだということを主張している。

しかし、躾けが一人にやらせたほうが良いとしても、善導においても一人にやらせたほうが良いという結論になるのだろうか。

 

まとめる。

疑問:躾けと善導のアナロジーは「一人にやらせたほうが良い」においても成り立つのか?