宗教

自然の神秘性を感じることなく生きることは私には不可能に見える。

ある意味で、この世界が本に記述された活字の中の世界であったとしても、

その舞台で私がたとえ自由意志を持たずに生きているのであったにしても、

どう生きるかはそれらの背景とは無関係だと現代の人々は考えているようである。

なぜ、無関係なのかは私には理解できないが、彼らは信念としてそれを持っているので

相対化して考えることは決してしない。彼らにとっては彼ら自身の目の前に起きる変化こそが

重要である。それがどのような背景で生まれているのか、そもそも彼らは何なのかについて興味をもたない。

 

しかし、ではなぜ、宗教はこれほどの力を持ち得たのだろう。宗教はなぜ世界を説明しようとするのだろう。

 

理性が、神を殺し、人間を独立させたようにみえた。しかし、次の時代に来たのは非理性だった。非理性の後にきたのは欲望だった。欲望が神に背を向けさせたとするなら、人間は自身の欲望の解決のために人間同士で取引をし、調整をするようになる。神のいない世界での平和は欲望の駆動の上で行われるようになる。あらゆる倫理は欲望の言い換えとなる。あらゆる言葉は欲望の表現となる。

そこでは自然の探求も神への信仰も欲望のために(例えば自己満足という欲望のために)していると解釈される。多くの人間は、そこで、その人が自己満足でやっていることを表明することを求める。自己満足でやっているという言葉で人は非難をうけると同時に、自己満足でやっていることを告白しなければならないという要求をつきつけられる。誰かを助けるということですらそのような状況である。

 

私たちは自己満足のために誰かを助けるということを告白しなければならない。

それが本当かどうかは問われない。多くの人間がそれを真としているのである。

それは自分たちがそうであるからである。

 

しかし、ここに、多くの人間が、それでも自分と同じものを他人にも見ようとする姿勢をみることができる。それは、自分と同じものとしか他人を見ることができないという面もあるのだが、共感できることを少しでも探そうとする暖かさのようなものも感じ取ることができるのではないだろうか。たとえそれが間違いだったとしても多くの人間はそのようなある意味での不器用なやり方で、欲望に突き動かされながらもその欲望という共通点を認めあうことでささやかに欲望を超えた何かを持っているのだ。