既視感

感動することを忘れてしまった。人は年をとるにつれて驚かなくなっていくという。まさに自分は、何もかもが既視感とともに目の前に現れてくるようになった。

すでにこれらのことは知っていたのだ。自分のことも、周りに起きることも。世の中の事件も。何ら驚くことはない。

では、驚きからしか感動は生まれないのだろうか。予期していたことでも、起きてしまえばそれは予期していただけのこととは違ってくる。

例えば、誰かが死ぬこと。死のレッスンはすでに何度も終えてきたはずだ。それでも誰かが本当に死ぬことを前に、私はそれでも心を動かさないのだろうか。おそらく、動かさなければならない。そういった倫理が私を縛るのだ。すでに私は感動することを忘れてしまっている。つまり、それすらすでに想定に入ってしまうのだ。心が停止して悲しみに暮れている。感動することを知ってしまっている。

 

どうやったら消えてなくなりそうな自分を保つか、というのが自分の課題なんだと気づいた。

気づいたということがあるときがまさに消えてない時だ。そして気づくのに気づく。以下を無限回繰り返したところにおそらくやっと、私が本当に目が醒めている状況に到達するのだろう。つまり、夢と今の状態がひたすら連続的に続いているのが今(もしくは今を含めた今までの自分にとっての歴史)だったのだ。

目が醒めないというのは一つの悪夢である。ずっと眠りについたまま人は死ぬこともできる。生まれた時から眠っているなら、それは夢の中で一生を終えるということで、生まれた時に、それ以降外の世界で体験できることの変形として見ることが夢の経験であるとするなら、その体験のないものの見る夢とは一体何を反芻しているのだろう。

しかしである。突然目が醒めるのだ。今というものが断絶する。今は夢だったのだ。私が夢をみて夢から醒めるのではない。今が夢だった。それが突然起こる。いつでも突然、今が変化を起こす。「超今」とでも言える今に向かって今が進んでいく。過去へも、未来へも行かない、もう一つの次元に向かっている。

雑記

人間であることが最後に残るのだった。

しかし、人間とはなんだろうか。あらゆる動物のうちの一種、知能を持ったサル、文明。

例えば、哺乳類とはわかりあえる気がする。彼らは愛を知っているようにみえる。

おそらく魚には愛がない。単にそう見えるだけだけれども。

本当に最後に残っているのだろうか。

人間であること、それはわかりあえるための最後の砦のようなものだった。

殺しあうのではなく、そして私達が一人であることを越えるためのもの。

本当だろうか。

人間を超える愛が、生まれたとしたら?

もしくはそれを人間と呼んでしまうことにしたら?

私達が最後に残されたものすら人間であるというには

それを認めるだけの力すら私たちに残されないような

圧倒的な比較の、上位の、存在

そんなものを私達が創りだしてしまうとしたら。