反戦

反戦という空気を多国間の国民同士で育む方法はないだろうか。

お互いが戦争が嫌な国民であれば、戦争を回避しようとお互いに動いてくれるだろうから。

やらなければやられるという関係をつなぎ替えてかえることができれば、戦争をしようとしているのは

国家だけということになる。大衆がついてこない戦争は不可能だ。

幸福の感度

幸福とは何だろうか。

何気ないことで幸せに感じるとき、いったい人はなぜ幸せを感じるのだろうか。

日常にある幸せを感じることが恐らく善い生き方であることは自分も知識として知っている。

しかし、日常にある幸せというものは、いったいなぜ発生しているのか、どのような条件を満たすと発生するものなのだろうか。

このあたりが、幸せに対する感度の問題なのかもしれない。この感度は一人一人によってまったく異なるもので、自分の生きていた履歴とも関係している。それで、恐らく人は自分の人生のどこかの段階、恐らく思春期あたりに、その感度を磨くことこそ大事であることに気づくのだろう。それは自分が何が好きで、何がしているときが幸せであるのかを考えることであり、そのようであろうとする態度や意志へと繋がっていく。つきつめればそれは個人の美に対する姿勢だと思う。

そしてそれは私に足りなかったものなのかもしれないとふと寂しくなった。

 

喋る

喋る前に自分の言いたいことがわかってしまうと、喋る気力がなくなってしまう。私は人間が言語で何かを考えているというのはどうも嘘なんじゃないかと思っている。もしそのようなことができるのならば、みな喋る気力を失ってしまうのではないだろうか。私は言語によって常に脳内で先に喋られてしまうのだから。

ただ、自分が言語によって考えていないとすると、自分はどのように言葉に変換して考えを述べているのだろうか。

一つわかるのは、言葉を喋り終わったときと言葉を喋っている瞬間というのはまったく違う2種類の状態だということだ。喋り終わった言葉は、それを反芻することもできるし記録することもできる。しかし、喋っている瞬間の言葉というのはそれが何に向かうのかということがわからない。そのような変換処理は思考を文章に変換するようなものではなく、もっと動的な変換規則そのものが話された瞬間から変化してしまうような微妙なものなのではないだろうか。

そう考えると日常会話も随分とスリルとダイナミズムがあるように感じられる。

 

眠り

祝日にひたすら数学書を眺めていた。読むというよりただ眺めていた。代数多様体なるものがあるらしい。他人の考えた高度な数理的事象をただなぞっているだけともいえる。さてそれは自分の人生を生きていることになるのだろうか。しかし小説を読むこともテレビを見ることも同じであるような気もする。同じ程度には私にとって娯楽なのだろう。

自分にとって一日を終わらせるというのがなかなか難しい。なのでここでこのようなものを少し書いている。何かが一日を終わらせることに抵抗しているのだ。といいながらもなんとなくその 理由はわかっている。この一日が私の主体的なものであったか。その質が常に眠る際に問われているのだ。