リアル

相対化することを相対化できないように、リアルというものもずらすことはできないと思う場合、リアルというのは一つしかないことを前提にしているのかもしれない。仮想という言葉はリアルがあるからこそ、それがまるで仮想的なリアルであるということが言えていた。しかし、仮想は必ずしもリアルとは関係がないとも言える(我々が想像しうる限りだが。)。我々は現実的という言葉も使う。夢ばかり見ていないで、という場合の夢は、この仮想のようなものかもしれない。この夢は私に(というより他者に)現実を指摘されるその周辺をフワフワと漂っている。リアルは代替ではなく拡張だとするならば、そのように現実をフワフワと漂っている夢は正しく現実を拡張していたのかもしれない。むしろ私が生きようとしていることの表れこそがそのような夢であって、現実は私にとってはそのような拡張したものの中で惑いながらも歩いているという、それをあらためてリアル(私の)と言えるとすれば、現実的という言葉とリアルというものが随分と違っているような気がする。

自己コントロール感

生きよと誰かが言ってくれたから自分は生きているのだろうか。

 

 

自分が生きていることを実感したりすることは、普通の生活ではそこまではないのが一般だろうと思う。では実感するときはどのような時だろうか。それは自分が自分自身をコントロールする術が失われた時ではないだろうか。つまり、生きていることを実感するのではなく。生きていたことを実感する。

さて、ではその生きていることそのもは自身でコントロールしているものだろうか。少なくともそれを行使する権限を自身が持っているとしたなら、冒頭の問題に突き当たる。

 

 

 

弔い

なかなか眠ろうとしても眠れないということがある。眠ろうとしているというのは正確には少し違っていて、眠る動作に入るのにどうしても抵抗してしまう自分がいるのである。一日を終わらせるにはどうしても何かが足りないのだ。そのために自分は寝るに寝れないのだ。最近、そういう気持ちを弔いと呼ぶことにした。毎日の自分を弔わなければと僕は自分に向かって夜毎に念仏を唱えていたのだった。ある日は故人にビールを振る舞い、ある日は本を送り、今日起きたことなどを自分に言って聞かせるのだ。だから先にいって待っててくれと。

 

メモ

*  カメラ

カメラが携帯についたときから人々の自意識が浮かんでは消えるようになった。人々により見える形で事態は進むようになっている。この自意識によって世界は小さくなっていく。窒息する程度には。見ている。見られている。

* 応答

時代は応答するものになった。つぶやくものから。即座に。電話のように鳴ることもなく。どこにいても。

* 偽・宇宙

空間と時間を安直にネットワークは作り変える。これが空間です。これが時間の流れです。その結果、ネットに宇宙ができる。偽物の宇宙。

* 物体的なもの

それでは物体とはなんなのだ?ネットとリアルは対立するものでも同じものでもなくなった。それは私たちがこの状況に慣れてしまったからだ。それでは改めて実体とはなんだったのか?例えば血を。血をネットは作れるだろうか。ネットにおける「血」とはなんだろう。

* 時間

キャラの違いは仮面のようなものであって、私たちはこの仮面を変えながらしゃべり続ける。そしてキャラは単純化される。それは礼儀作法になったからだ。そして実時間がどのように消費されているのかがより重要になってくる。我々はつねに一つづつなのだから。それともエージェントに代行させるのだろうか。行為を?あらゆる条件をコーディングするためにSiriを使って?

 

* 殺すことは可能なのか?

社会的な殺人が物理世界を一つ一つと裏返していく。動画が一つ世界から立ち上ることで、一つ世界から一つ何かがもっていかれたのだ。物理がなくなってその代わりに社会のネットワークが作り出すのはリーマン幾何ではなく新しい幾何学なのだろうか。人間は液状化してそのパイプを流れていくような。

* 2011

「さようなら」という現象がなくなってしまう。いつしかビデオのように取り出される。ビデオメッセージが無数に繰り返してくれる。「さようなら」「さようなら」。何人の人間が死んだまま宙に浮いている。それらはつぶやかれなかった。誰も「さようなら」とは言わなかった。今まで記録に残らない何億の人間が生きていたというのだろう。そしてこれから何億の人間の記憶が残されるというのだ。あるいはその記憶の断片が本当に消えてしまうことがこの新しい社会の殺人であるかのように?

 

意味

夏である。日本の夏はお盆とか終戦記念日とか過去を振りかえる行事が多い。照りつける陽射しで視界が閉ざされるし、多少動けるのは涼しくなった夜だけで、耳は蝉の声で塞がれていて、どうしても朦朧としながらぼんやりと自分一人と対話している気分になる。あれから日本はずっと終戦で、先祖の霊とともに蝉の声を聞きながら花火を見上げている。

最近、本を読んだり対談を聞いたりしていて、意味を問うことがやはり重要なのだなと思うようになってきた。自分もそうなのだが、意味ということが話題に出た瞬間に、誰かが「意味なんてないんだよ」というのが当たり前になってしまっている。そうではないときはもはや意味という言葉すら野暮なものか、話題に出してはいけないもののようになっている。働くことも、家族と過ごすことも、愛することも、食べることも、その意味なんて聞いちゃいけないのだ。ただ、その事態に満足することを皆求めているように思える。口には出さないがそれが大人の態度なのだと言おうとするかのように。人はこれを虚無感と呼ばない。決して口に出さない。

何の意味があるかを問うことには大まかに二種類ある。普遍的な意味と自分にとっての意味だ。意味が言葉で表されるものなのか、それとも一般に言葉と無関係であるのかは僕にはわからない。このどちらも重要だと思うがここではさしあたり自分にとっての意味を問うことを考える。自分にとっての意味ということは他人にとっての意味ではない、例えば今日漠然と会社に行ったことについての自分にとっての意味だったり、誰かと話したことにとっての自分にとっての意味だったり、あるいは自分が生きていることの自分にとっての意味だったりする。(逆にそこで「意味がある」とした場合、どのような意味があるのかを表現することってできているだろうか。)

自分で周りの物事に意味づけをしていくという行為は、自分を大切にしていることにもつながると思うし、比較的ポジティブな行為だと思う。「意味なんてない」というのは単に「科学的世界観において」、なのではないだろうか。

私たちは単なる有機体だし、物理法則に従って動いているだけの物体であるから。現代ではそれがわかってしまっている。つまり、科学的の観点から意味なんてないというのは自然なことだ。そういった事象に我々もっというと私がどのような意味を見つけていくのかのほうが、満足しつつ虚無を生きるより僕にはましな生き方にみえる。その先に意味を見つける行為に対する虚無感が待っているにしても。

 

 

 

 

 

神々

 

ここからみて、遠くに何かが見える。それを人々は毎日拝み「神」と呼んだとする。

「神」は数体いて、それぞれに名前が付けられていた。

けれど、その中の誰かが実際に歩いてその「神」のところまで行ってみたところ、その中の一体は光る石だったことがわかった。その地点からさらに遠くにやはり「神」が数体いる。その者はそれら神々を目指して歩いてみたが辿り着くことはできなかった。

一方、彼らを見守る宇宙人がいた。宇宙人は彼らが「神」の一体が光る石だったことを確認したのをみて、自身のUFOをもちいてさらに遠くの神々が何であるのかを探ってみた。その結果、神々の中でさらに一体だけ、虹の一種であることがわかった。そこからさらに遠くに神々が見えるのであるが宇宙人がいくらUFOを使って目指して行っても辿り着くことはなかった。