拡散する私

自分が離散しているというイメージは、あまり普通ではないかもしれない。いつも自分というものがあって自分の意見を言い、的確に自分の意見や感情を話せることが普通のあり方のような気がしている。けれども、自分にはそれができるときが少ない。

私にとって自分はつねに複数が揺らいでいるような状態だ。なのでいつ突然自分に何かを振られたりしたとき、自分は的確に自分の状態を伝えることも自分の希望を伝えることもできない。反対のことを言っているつもりはないが咄嗟にでたことばはつねに私が言いたいこととは違う、そういった思いだけが残る。では私が本当に言いたいことはなんだったのか、と問うと、また私は揺らいでいく。問われた言葉だけが脳内をコダマしていく。「お前は何がしたい。」「お前は何が言いたい。」

そうして私が拡散していくとき、私は様々な人々に遭遇する。拡散した私はそこで様々な人とその拡散に応じたやり取りをかわしている。拡散した私はそれぞれの感情と思考と趣味を持ち、それぞれの場所で人々と話し、気持ちを分かち合い、行動する。しかし、私は拡散しているのだ。それは私の拡散された姿の一つだ。その拡散が元にもどったとき、そうした人間関係そのものが、元の私にかえってくる。そこで私は途方にくれる。私は何をしたいのだろう。私は何を感じているのだろう。私はどこへ行こうとしているのだろう。

本当の私というものがもし幻想であるとすれば、私が心地よいものも、私が好きなものもまた幻想だろう。しかし、それを認めてしまうと、私は何をしてもそれが不完全に不十分にしか感じなくなってしまう。それを認めないと、本当の私が私ではないどこかにいることになり、今の私が心地よいものも束の間の気の迷いのようなものになってしまうことを恐れている。

確固たる私というものは何によってもたらされるのだろうか。それは役割だろうか。それは生き方だろうか。それは決断だろうか。みな、何かのきっかけで、人生のどこかで確固たる私を掴み取っているのだろうか。そしてそれは本当だろうか。

 

 

 

 

 

感情

感情はそれぞれのからだのどこからくるんだろう。そのどこかはもしかするとバラバラなのかもしれない。喜び、怒り、哀しみ、楽しさというものが一つの「感情」という言葉で表されるのが本当はおかしくて、バラバラのものを無理に一つの言葉で書いてしまったということはありえないだろうか。

 

たとえば、「イライラ」って喜怒哀楽のどこに入るのだろう。怒りのような気もするが少しズレている気がする。むしろイライラするから何かのキッカケで怒ってしまうように思える。たとえば、「心配」は喜怒哀楽のどこにも属してないようにみえる。感情の手前にあるイライラ、ソワソワといったものと喜怒哀楽は原因と結果みたいな関係なのだろうか。

 

感情はそれだけではうそでもほんとでもないし、良いことでも悪いことでもない、美しくも醜くもない。それぞれの感情があったりなかったりするものだとしたら、もっと別ないくつもの軸を付け加えるものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

理解

 

IMG_1321
 

 

人前でスライドを使って話すのは何年振りだろうか。まずパワーポイントのインストールから始まるくらい自分はプレゼンと縁遠い人だった。早く人間になりたいレベルに喋るのが下手なので人前で喋ることをなるべく避けてきた結果、このような珍獣ができあがるのだ。世の中はある意味うまくできていて必要でなかった能力は退化していく。

発表では文脈を理解していた人でないとわからない内容になってしまった。自分の考えていることが最後まで揺らいでいたので、スライドもそれに応じて存分に揺らいでいた。タイトルは何度も書き換えられ、それにあわせて内容も変わっていく。

今回の目的はそもそも自分の脳内にある分離した物事に一つの統一した軸を与えることだった。それができていたのかということを考えている。バラバラだったものを一つの絵として繋ぎ合わせるのかバラバラだったものに一つの観点を与えるのかは異なる行為であるはずだ。しかし、それらの行為のあいだを振り子のように揺れ動いてしまった末に最後の一振りで繋ぎ合わせに向かってしまったのではないか、そんなことを漠然と感じている。このバラバラのピースはなぜここにあるのだろう。もう一度最初の問いへ戻りそこで立ち尽くす自分へさらに問いかけてみる必要があるのではないか。

 

疲れ

疲れ果てて帰るとき、脳がくしゃくしゃになっているような気持になる。神経疲労というのだろうか。喋ることもできず身体を動かすのもつらくなる。腰が痛いのでリュックにしてみたのだが、なにも入ってないはずのリュックが肩に食い込んで痛い。

こんなに疲れているのに、家に帰りたくないときがある。いや、しょっちゅう帰りたくない。目黒駅から降りるとしばらく駅の構内に立っている。それからエスカレーターを上ってそのまま本屋へ向かう。

本屋で本を探していると、自分が答えを探していることに気づいた。本棚のどこかに自分の答えがあるのじゃないか、古典にはすでに答えがあるんじゃないか、あるいは流行の雑誌で有名人がさらりと解決してくれているのかもしれない。そんな風に答えを探している。

もっと疲れてくると、本屋で癒しの本を探し始める。「頑張らなくて良いよ」とか「心の鎮め方」のような本。一回読めば捨ててしまうような軽い本だけど、必要なときにピンポイントで慰めてくれる。日本は慰め消費大国だ。

 

そうしてよれよれで帰ってきて、あんなに帰るのが嫌だった自宅が結局一番落ち着くのがわかるのだった。

 

ミュージカル1980

自分の中で一つの物語を作ることは可能なのだろうか。人に話を聞いてもらいながらそんなことを考えた。自分の場合、自分自身のことを考えることが最も難しいと普段感じている。特に難しいと思うのは自己紹介のような場面だ。自分のことを紹介するという行為はかなり高度な作業で、それは自分のことを自分がとてもよく知っているということだと思う。一言で言い表すようなことをしてしまうのだから単純に考えると暴力的ですらある。

自己紹介をする自分を意識するとしたら、それは自分が人に見せたい自分をメッセージとして伝える行為ということになるだろう。普段からこのような自分を見せる練習というのを皆重ねているようにも思えないのだが。

自己紹介をするシーンで僕は必ずあるミュージカルを思い出してしまう。あるNHKの幼児向けの番組の劇なのだが、ぬいぐるみたちがやりとりをしている最中、突然デーンという音がなってミュージカルがはじまりぬいぐるみたちが歌いだすのだ。ミュージカルというものの意味を知らなかった当時の僕は唖然とした。今までの会話がブツ切れになって突然アクセントも声の質も変わってしまうこの事象に僕はついていくことができなかった幼児だった。

自己紹介というのは、僕にとって日常で突然ミュージカルがはじまるような瞬間なのだ。