転倒

宗教が本来追うべきこと、哲学が本来追うべきことを追っていないのが今日の宗教戦争であるとしたら、

それはソクラテスとキリストが本来の向かっていたはずの論点を覆い隠し、愛知と救済というすりかえが行われてしまったことにあるのではないだろうか。風呂の湯を眺めていたらそんなことを思いついた。

キリスト教は本来の神の意味を転倒させた。それは哲学においても同時に行われていた。最終的に、それは等しい人間という神話をもとにした学として結実する。

 

だから現在の宗教と哲学は神ではない人間を超えるものに対処できない。

人間を超えるものは超人ではなかった。

様々な図式はすべてその範囲を出ることができない。

と、ここまで書いてどこまでニーチェっぽいことなのかの線引きを考えていく。

 

 

 

メッセージ

私たちは伝えたいことことがあればそれを伝えるメッセージを出す。

言葉の根源とはなんだろうか。それは例えば毒虫の黒と赤のマダラのようなものではないだろうか。その毒々しい姿をどう受けとるかはその虫と虫を見たモノの間の共通了解が生じるように思う。これは言葉の起源にならないだろうか。

虫は「私は毒を持っている」というメッセージを出し、それを見たモノはその虫には毒があると思う。だから食べようとする行動をやめる。

しかし、虫は意識がないのだとしたら、そのメッセージを知るはずがない。虫はメッセージの意味を知らない。そうなってしまうとこの虫と虫を見たモノの間にあると私には思われた共通了解はないのかもしれない。するとこの話はうまくいかないようにみえる。

 

そこで話を逆転させてみる。

仮に「虫に伝えたいことがある」とする。「虫に伝えたいことがある」ことが仮に正しいとするなら、「伝えたいこと」というのは虫の内部に存在すると考えるのは妥当だろう。なぜならこの虫くんが伝えたいのだから。虫くんが誰かに操られているならそれはこの虫にとって伝えたいことがあるとはいえないはず。

ここでひっかかるのは「虫に伝えたいことがある」という信念を誰が持つかだろう。それは行動をやめることになった見たモノか、この顛末を見ている私か。

 

整理すると

1. 虫は色でメッセージを伝えたい。

2.虫を見たモノは虫がメッセージを伝えたと思った。

3.虫を見たモノが虫を食べなかったことから私は虫がメッセージを伝えたと思った。

もう一つあった。

4.虫を見たモノが虫を食べなかったことから私は虫を見たモノが虫がメッセージを伝えていると思っていると思った。

虫という生物で考えたが、これは太陽、石、死者でも構わない。