掃除

三連休に部屋を片付けていた。僕の部屋はいわゆる汚部屋といってもよいくらい部屋が荒れている。大掃除をかねて部屋のゴミを捨てた始めた。

ものを一つ持ってきてはどこに置いたらよいのか考える。ごちゃごちゃしていたものが片付いてくるとそれが心の中まで整理されていくような気持ちに、掃除が少しだけ楽しくなる。

二日かけて机と床がみえるようになった程度だが、その間に考えたことがいろいろあり、やりたいことも出てきた。

しばらくやる気がなくなっていた日記をつけたり、家計簿にガス代を記録したりした。

ゆっくりとした一日がすぎてくれる。このタイミングなら自分でも生活に追われずに生きていけそうな気がした。

自分を大事にする下地のようなものを作ることができたのだから。

舞台

私たちは毎日を不変であるかのように過ごす。不思議なことに今の時代でも、まるで時間が繰り返されるかのように一日をはじめる。

一年が繰り返し訪れる中で、私たちだけがライフステージを進み。老いて、やがて舞台から退場していく。

ここでは、「私たち」はすでに他人事として語られている。繰り返される舞台は固定され、そこにいる私たちは演じられる。ここにあるのは観客者の視点である。

 

この世界設定こそが(少なくとも日本人の)心象風景だとすれば、二つの謎がある。

一つは演じているのは誰か。もう一つは観客者とは誰か。

 

私たちは物語の中で演じられる役を演じている役者なのか、それともそれを見ている観客なのか。

この二つの謎は最終的に一つの謎をさらに生み出す。

一体私たちはなにを演じようとしているのか。

 

「それが人生である」という言葉にどれだけの虚無感がこめられているのかは私にはわからないが

「演じきること」も「日々を楽しむこと」も「受け入れること」も

すべてが諦念の言い換えのように聞こえてしまう。

 

この謎は一度舞台を飛び出さなければ解けないものなのではないだろうか。

「私はもう演じない。」と線を引き、席をたつ。

 

「舞台からは逃れられない。」や「舞台の外はない。」という役者たちが投げる言葉を背に受けながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どんなものもお金によって媒介されるとすると、この金によって媒介されないものとは一体なんなのだろう。

どんなものも、定義からはお金に媒介されるはずなのに、その前提がなりたたないもの。

百万円をつまれてもお金で買えないものを前にして、それは三つのパターンがある。

一つは百万では買えないほど価値が高いというもの、

もう一つは百万の価値がそれに比べると随分価値が低いというもの

さらにもう一つは、比較が不可能だからそもそも買えないというもの。

 

 

消費するコンピュータ

ここ数年、人工知能が再び注目されている。人工知能は何度もブームがあった。例えば日本でも国家プロジェクトとして人工知能に巨額を投資して失敗に終わったこともある。1980年代に500億円を投入した第5世代コンピュータというものだ。この時の失敗は良さそうな高速な推論システムを作ってはみたもののそれを使うには大量の知識や経験から得られる知が必要であり、そもそもそういったデータを入力すること自体ができないという点が大きかったとそうだ。それをWebの時代になってビッグデータということであらゆる人間の経験や知識をなかば自動的に収集し分類することでそのような問題は部分的に方法がみつかりつつあるのだろう。もちろん処理能力の驚異的な進展もある。

このような時代において今一番皆が注目しているのは、産業革命のようなことがもう一度起こるかということだろう。この時代に機械が人間の単純作業を肩代わりするようになった。バベッジの発想も元は対数計算を計算士に分業させていた部分を機械に置き換えるという発想でコンピュータが発明されている。人工知能は単純作業ではなく恐らく認知の伴うような作業すら肩代わりするだろうと言われている。職業の大半がなくなるのではないかという予想もある。

さて、それを踏まえて私たちには何が残されているのだろうか。単純に考えると、人間に残されている仕事は人工知能にできないものに限られる気もしてくる。工業のようなハードからソフトへと今までも先進国の産業は変わってきた。すぐ思いつくのはサービス業とクリエイティブな仕事だろう。ただ、サービスについても大半の安価な労働は人工知能に置き換え可能だろう。すると置き換え不可能なものとは何だろうか、それは恐らく「置き換えたくない」ものなのではないだろうか。それは人間としての拒否の態度、いわば最後の抵抗ともいえる。

そういった人間が行うサービスといったものが高級なものに限られるとすると、そこに雇用は生まれるだろうか。わざわざ人間をたくさん使うことが推奨され価値を生む時代になるということも考えられる。日本のアイドルが48人で1グループのように、値段で勝負せず、人間が10人で行う美容室のような。いずれにせよ限られた一部の人にとっての贅沢になるはずだ。

ではクリエィティブなほうはどうか。とにかく大量の人間の職がなくなるのであるが、もし仮にそういった人たちがある意味で仕事から解放されたのだと考えると、彼らは何らかの芸術活動を研究活動をはじめたりはしないだろうか。暇というものもそういった役割をもつのなら悪いものではないのかもしれない。問題は全員が何かを作ったとき、一体誰がそれを鑑賞するのかという問題は残る。100億人のアマチュア芸術家がいたとして。

このとき生まれるのが「消費者としてのコンピュータ」ではないだろうか。彼ら消費者としてのコンピュータは金銭を所持しものを消費し、経済を回す一員に人間と同様に組み込まれるとともに、彼らアマチュアの芸術家達の作る作品をも消費する役割を持つのだ。ミラーの向こう側から「いいね!」を飛ばしてくる者が人間であるのか機械であるのかはわからないようにアルゴリズムによって計算されている。機械が人間にとってわるのではなく、機械が人間そのものになり、人間であったものが徐々に消えていくような、そのような形で人間が終わるのではないだろうか。アトムが好きな日本人はそういう意味で、本当の意味で終わりの人間であるのかもしれない

 

 

 

 

 

なかったもの

私が私と対話することと、私が思うこと、私が独り言をいうこと、私がクマのぬいぐるみに話しかけること、私が神に告白すること、私が目が覚めて最初につぶやくこと

「私」という言葉は奇妙で、私は私を指しているだけなのに、皆は皆、それぞれのことを考える。だから私には二つの意味がある。私からみたあなたにとっての私と、私という私と。

一番重要そうなこの言葉自体がすでに分裂しまっている状況では、「私とは何か」という問題にこたえることはできないようにも思える。これは「人間とは何か」という問題ではなかったはずだ。「どう生きるか」という問題でもなかったはずだ。「善」の問題でも、「この世界」の問題でもなかったはずだ。決断の問題でも、状況の分析でも、理想でも現実でもない。もちろんあなたでもない。「私」の問題だ。

では、これは誰に向かってなんのために話しているのか。結局、この話は冒頭に戻っていく。