「普通」のプラトン達

ある人にとって書かずにいられないようなことはあるだろうか。多くの人は書かない。書けないわけではなく書かない。そもそも書く必要がないからである。それはなぜだろうか。

「日常」という言葉に怖さを感じている。それは「普通」という言葉がときに忌み嫌われる程度に批判されることすらない。むしろ日本では良い意味にすらつかわれている気がしている。本当に「日常」等あるのだろうか。自分が生きているこの毎日が「日常」であると感じるという思考にはすでになにかメタ的な匂いを感じる。これは私たちがそう思う時、それはむしろ「日常」として私たちがイメージする「普通」への欲求をさしているのではないだろうか。あの存在しないはずの「普通」、誰もがなることのできない「普通」への憧れが私たちを「日常」への肯定へと導く気がしてならない。

ソーシャルネットに表れる「日常」、私たちの会話に表れる「日常」、これらの様々な顔を伴って表れる「日常」がすべて、あの到達できない無限遠点に想定される「普通」に向かっている。私たちはその到達できない存在との差異によって日々自身の存在の至らなさを意識するのである。

 

 

 

 

 

流されること

また、考えることが麻痺してきている。いつものように日常に流されていると感じている。流されながら何かを思っていれば良いのかもしれない。けれど、この流れの中にあるときは何も記憶がないのだ。いや、日常としての記憶はある。感情もある。面倒だ、気分が良い。いらいらする。眠い。そういう感情もあるし、その感情の記録もある。けれど、そこに自分がいない。自分はふと我にかえるときにはじめて顔を出してくる。そのとき、はじめて、自分がそういう感情があったことをぼんやりと思い出す。よく、もう一年がこれしかないよと人に言ったり、自分で思ったりすることがあると思う。そういうとき、そのようなことを言った回数をどこかに記録してみると、おそらく、一年のうち、本当に麻痺していなかった瞬間の回数がわかる。おそらく年に数回だ。それ以外は、自分たちはまるで機械のように働き、人形のように歩き、魂はどこにもない。

感情は揺れ動く猛獣のようだ。私を常に動かし、服従させ、その行動を促すものだ。私が感情のままに動くとき、私はそのものは感情ではない。

感情のままで動く事と内省をすること、この両面はぶつかり合いを起こす。爆発するような雰囲気が物事を動かす。

しかし、普通の人と呼ばれる人は、この感情のままの動きも内省をすることもしていないようにも見える。そうした彼らにとっての生活の楽しみや苦しみというものがなんであるか、いつか知りたいと思った。

おしゃべり


ピストルをコメカミにあてる。6人いればそのうち1人しかいきのこらない。引き金がひかれ1人だけがその場に立っている。生き残った人は静かに語り出す、自分が生き残れた理由を。それは引き金を引いたからである。自分がいかに決意しこの場にきたのか。