示されるもの

あいかわらず土日は孤ワーキングをつづけている。土日のコワーキングスペースの人は少ない。単調な生活になりがちな自分にとって違う場所で作業をすることは良い気分転換になっていると思う。ただ、もう少し本を読んだり考えたりする時間を取りたい。

プログラミングをすることは孤独な作業だと思う。最終的なところは何が問題であるかを人に伝えるのは難しい。なによりその問題が問題であるのはそのプログラミングをしている人にしかわからないのであるから。仮に、この世界を作ったプログラマがいるとしたら、彼(女)の孤独はどれだけ深いことだろう。

なぜ、プログラマは自分の問題を相手に伝える事が難しいのだろうか、非プログラマにとっては極めて単純な解決があるように見えることであっても、実際にそれを言うのとやるのでは全く違う難しさがあり、その単純な解決自体はわかっていることなのだったりする。ただ、それをあえて言われる事でああ、そうかも、単純なことかもと思えることもある。この場合は、元々の困難さが実は回避できるものであったりする。お互いに理解しあえたわけでもないのに、この時は問題自体が解消されてしまうことがある。

この問題は実はもっと一般化できる問題なのかもしれない。プログラマと言わず、個人が一人一人自分の抱えている問題があるとして、これを人に理解してもらうということは実は極めて大変なことではないだろうか。一般的な「誰かが死んだから哀しい」とか、「お金がないから大変」といった大雑把な理解で相手が理解を示す事はできても、実際の状況とはもっと混みいったものになっていて、おそらくそれを説明することだけで何日もかかってしまうようなことが大概なのではないだろうか。このとき、相談される側が見せる共感とアドバイスの類いも、非プログラマが見せる態度とさほど変わらないのかもしれない。ただ、それでもあえてアドバイスされた単純に的が外れたような言葉も、場合によっては「そうかもしれない」という解消を促すものになる可能性、お互いがすれ違っていて、問題が共通化されないうちに問題自体が消えてしまう可能性はある。

もし、私たちの抱える問題がそういった勘違いの元でしか解消できないとしたら、それはまるで信仰のうちに生きる人間の啓示のようなものと何か似てはいないだろうか。

素朴な圏論(3) 逆射

三日坊主の三日目に突入した。この文は圏を学び始めたある一丁の豆腐の書いたメモにすぎません。

エピは入り口をエピ射で閉めてやると同じ振る舞いをする射は同じ射であるという機能を持つ便利な射がエピ射であった。

エピ射fとして

f;g=f;h ならば g=h 

みたいなやつである。

モノは反対に出口をモノ射で閉じてやると同じ振る舞いをする射が同じ射であるという機能を持つ射だと思う。

今回は、3かける1/3が1になるように、射の合成が恒等射になるような、1/3(逆数)にあたるものを考えたい。

ただ、射の合成はかけ算のようにf;gがg;fであるとは限らない(可換性があるとはいってない)ので、入り口と出口のどっちがわに掛けて恒等射が得られるのかで2通りある。

つまり、

(その1);g = id

となるようなやつと

g;(その2) = id

となるようなやつである。それぞれ右逆射とか左逆射とかいわれるものだが今合成をf;gとしているため、他の本でg○fとしているときと左右が逆になりそうなのでここではこだわらず、右逆射かつ左逆射でもあるものを単に逆射と呼ぶということですましておく。
(ちなみにf;qは図式的な合成の書き方、g○fを関数的な合成の書き方に親しい。今後もわかりやすく混載して書く。)

つまり、fの逆射f^-1は

f^-1;f=id

f;f^-1=id

である。fがA->Bとすると、上下の恒等射idはそれぞれid_Bとid_Aであることに注意。

この時、fの方をisoと呼ぶ。そういうfで結ばれる対象A,Bはisoな関係(isomorphism)であるといったりする。
(epiかつmonoがisoであるというわけではない。)

今回は、要するに逆数っぽいことを射でやりたい。これが逆射で、逆射があるような射をisoと呼ぶということをまとめてみた。

具体的に、epi,mono,isoの例をあげたり、チェックをするにはどうすれば良いのか。

epiの定義の対偶は二つの異なる射はエピ射で入り口を閉じてやっても同じにならないというものだからこのあたりからだろうか。

ちなみにもし、fがisoなら

f;g = f;h

のときに左からf^-1を合成して

f^-1;f;g = f^-1;f;h

id;g = id;h

g=h

となるので、isoならepi、同じようにisoならmonoになる。しかし、逆にepiかつmonoだからといってisoになるとは限らない。

素朴に圏論(2) モノとエピ

圏論の復習がてらに。

前回は圏は数学の基本的になりそうなのでそれをやってみたいということを書いた。
とりあえず矢印を使って概念を抽象化したときに関係を探る学問であるという程度の理解で進めようと思う。

前回の復習:

とりあえず
もの --- 対象
矢印 --- 射

矢印には前回述べたようなくっついて長い矢印になるとか幾つか規則がある。

この関係全体を圏と呼ぶ。

対象をA,B,C,...と書いて、
射をf,g,h,...と書く。

射(矢印)は対象からでて他の対象へとむかう。これを

f:A -> B

と書く。

射の合成は

g:B->C

なら

f;g

と書く。

つまり、

f;g: A -> C

という射になる。対象から対象への射は一本でなくて良い。

h:A -> B

というのがあってもよい。なので、A -> B の射たちをまとめて 圏(A,B)と書く。

対象は自分から自分への射があってもよく

j: A-> A

とくに、恒等射と呼ばれる合成しても意味のない射を必ずもたないといけない(しかも全部の対象に)。

つまり、圏(A,A)という射の集まりには必ず恒等射が含まれる。

復習ここまで

圏の例を幾つか具体的にあげられればと思ったので考えてみる。

Aさん、Bさんがいる。誰かが誰かを思う行為を考えてみる。

Aさんが思うBさん
Bさんが思うAさん

これを

f: A -> B
g: B -> A

と書く事にする。すると

Aさんが思うBさんが思うAさん

f;g A -> A

のような射の合成が作れる。

Aさんが思うBさんが思うAさんが思うBさん

f;g;f A -> B

が作れる。圏としては

(f;g);f = f;(g;f)

が成立してほしいので

Aさんが思うBさんが思うAさん、が思うBさん

Aさんが思う、(Bさんが思うAさんが思うBさん)

は一致している状況。。。うん、意味がわからん。

やめます。

もう少し他の例を考える。

ちなみに矢印(射)の先端をcod、根っこをdomと読んだりする。

つまり

f: A->B
なら、domがAでcodがBである。これをdom(f)=Aとか書いたりする。

なにか例はないか。

3つの事件があるとする。これらの事件は原因と結果で関係している。
事件を

朝寝坊事件
定期忘却事件
遅刻事件
減給事件

としてみる。
4つだった。4つの事件があるとする。

これらは次のような因果の射達で書けるのではないだろうか。

朝寝坊事件 -> 遅刻事件
定期忘却事件 -> 遅刻事件

遅刻事件 -> 減給事件

射の合成は
朝寝坊事件 -> 遅刻事件 -> 減給事件
というような一本の線もやはり先端の結果、根っこの原因となっているので大丈夫そう。

恒等射は
朝寝坊事件 -> 朝寝坊事件 という無理矢理な関係をかいて、これを朝寝坊したのは朝寝坊したからだと思えば成り立ちそうな気がする。

実際、
朝寝坊事件 -> 朝寝坊事件 -> 遅刻事件

とつなげてみると、朝寝坊したのは朝寝坊したからであって、そのせいで遅刻したということであって、それは結局朝寝坊したから遅刻したということの言い換えで、

朝寝坊事件 -> 遅刻事件

ということだし、

朝寝坊事件 -> 遅刻事件 -> 遅刻事件

朝寝坊したから遅刻したのであって、結局、遅刻したから遅刻したのだと思えば、それは朝寝坊したから遅刻したということを言い換えてるだけなので
やはり、

朝寝坊事件 -> 遅刻事件

を指している。恒等射も良さそう。というわけでこれは圏になっている。

遅刻圏と呼びたい。

遅刻圏は対象と対象の間に射が1本ずつしかない。これはやせていると表現する。
やせてない圏を作るにはどうすれば良いか。

射にかかる時間でもいれたら良いのではないだろうか。

f5 朝寝坊事件 -> 遅刻事件

というのは寝坊して5分後、遅刻事件となった。ということを意味するとする。

同様に

f10 朝寝坊事件 -> 遅刻事件

は寝坊して10分後、遅刻事件となることを意味するとする。

こうやって何分後という射を無数に増やせる。ただし、

f0 朝寝坊事件 -> 朝寝坊事件

は、朝寝坊事件の直後は朝寝坊事件であったとすると、

f1 朝寝坊事件 -> 朝寝坊事件

は、朝寝坊事件の1分後も朝寝坊事件であったということで

f1;f1;f1;f1;f1;f1;f1;f1

は朝寝坊事件の8分後も朝寝坊事件のままでるということ

f8 = f1;f1;f1;f1;f1;f1;f1;f1

をいみすることになるのではなかろうか。時間入り遅刻圏?

ますますわかりにくくなった気がする。

やはり、射を行為だとおもって、

Aを行為によってBにする。というのがわかりやすいのかもしれない。

Aを他の行為によってBにすることもできて、

Aを何もしない行為によってAのままにすることもできる(恒等射)

二つの連続する行為から一つの行為をつなげることもできる。

これは行為に関する圏なので行為圏とでも呼べそうである。

具体例がなかなか思いつかなかったがもっと他に例があれば書いてみたい。

さて、タイトルにもどるが、そういった圏があって、その射にある特徴があるとそれをエピとかモノとかよんだりする射になる。

エピというのは、圏(A,B)の射達g,h,..が入り口をエピの射fで塞いでしまうと
f;g = f;h なら g = h になってしまうようなものになっている。

つまり、エピ射は入り口を塞ぐ事でそれが同一になってしまうなら元から同一であるということを判断できるような射である。

同様にモノは出口を塞ぐ事で圏(A,B)の射達がそれで同一になってしまうなら元から同一であるということを判断できる射である。

これもなにか具体的なものが思い浮かべば理解できるような気もする。

例えば恒等射はエピじゃないだろうか、此の場合モノでもあるが。

もう少し地面を這うように具体例と圏の素朴な定義を続ける。

素朴に圏論(1)

圏について漠然と復習してみようと思った。不定期連載的に。

圏とは集合論と並ぶ数学の基本的な言葉である。なぜ数学の基本となる言葉になりうるかというと集合論はものの集まりについての抽象化したものだとして、圏は関係についての抽象化とも見えるからだと思う。

集合論 -- ものの集まりの抽象化
圏論 -- ものの関係(操作)?

このとき、集合論は、集まりとはなにかを第1に考え続けるのですが、圏は関係を第1に考えるようにみえる。

圏は、対象と射からできている。対象の集まりを[対象]、射の集まりを[射]と書く事にする。

圏 -- [対象]と[射]

対象をA,B,Cと書く事にする。

対象 -- A,B,C,..

射は対象から対象へと何本も伸びて良い。ある対象Aから対象Bへと伸びている射達を

圏(A,B)

と書く事にする。これは射の集まりである。射の一つ一つはf,g,h等と書く事にする。AからBへ伸びているので矢印で

f:A -> B

みたいに書く。fは圏(A,B)に含まれているので

f ∈ 圏(A,B)

と書く事にする。

射は合成できる。

f: A -> B
g: B -> C

として、新たな射h:A->Cを

h = f;g

(もしくはh=g○f)

と書く事にする。

さらに、射は三つ並べた時に結合できないとならない。

(f;g);k = f;(g;k)

これは何かを圏だと思うのにかなり強い制限になってしまうと思う。結合できるので上記括弧はいらない。

こういったf;g;h;j;k....といった矢印のパスを道と呼ぶ。

最後に、対象はかならず自身から自身へ恒等射を持つ。これを対象Aの恒等射をidAとすると

idA:A->A

は射f:A->B ∈ 圏(A,B)

に対して

idA;f = f;idB

となるものである。

丁寧に書こうと思うときりがないことに気づくが次回はepiとmono。
目標としてはなるべくプログラミング言語に近い形で記号を改良しつつ書ければ。

公開と非公開

公開するものと非公開するものが混濁する様は美しい。肉体とはそもそもそういう場であったとするなら、私たちは公開と非公開の混濁する新たな身体をWebに持っていない。

私たちが大事したいもの、これが空っぽであることに気づいてしまうのが恐い。そして恐いことは忘れられる。私たちの身体がスカスカであることと同じであるとするなら、それがスカスカであることを私が気づいているのか、それともスカスカであると指摘されることが恐いのか。どちらにせよ忘れらているのならわからないわけであるが。

透明な存在です。と1996年に手紙が届いた。もちろん私たちは忘れていたのだった。あれから20年経ってもう一度手紙が来た時はすでに透明である事が当たり前になってしまった。透明であることが当たり前なら公開するも非公開するもないではないかと思いたくもなる。けれども今度は透明な私たちはその透明な存在を公開と非公開に分断していく。私たちは恐くはないのか。恐いことを忘れたのか。それすらもすでにわからなくなっていた。

失われた歴史書

前からちょっと気になっている日本の歴史のこと。日本で最も古い歴史書である古事記は西暦712年あたりに作られた。日本書紀は正史として最も古く720年とのこと。自分の疑問はその当時も沢山書物は作られていたはずでそれは一体どのようなものかというもの。

実際にWikipedia等で調べるとすぐ出てくるが、これは色々あるみたいだ。まずそもそも古事記が作られたのも「天皇記」と「国記」という歴史書があって天皇記が焼失してしまったからで、古事記自体は「帝皇日継」と「先代旧辞」という暗誦で伝えられていたものを記録しなおしたものらしい。

この天皇記は西暦620年に聖徳太子と蘇我馬子によって編纂されたもので帝皇日継とほぼ同じ内容ではないかと言われている。蘇我馬子の暗殺に関連して焼失してしまっているので現存しないが国記のほうは焼けてないのでなぜ消えたのかは謎だ。中大兄皇子が失くしたのだろうか。

また、鎌倉時代に日本書紀の注釈書として「釈日本紀」という書から「上宮記」という書が鎌倉時代まではあったが今では失われている。これももし現存すれば古事記より古い歴史書の可能性がある。この辺りは確かに浪漫がある。

 

 

 

ありのまま

ありのままに見る事は人間にはできない。だけれどもありのままに見よと言われたとき、そこには幾つかの理解の仕方がある。一つはなぜそれを言われたのか。もう一つはそれを言ったのは誰か。ありのままという言葉から想像もつかないおかしな話だがこれは次のようにも言える。相対主義は相対化できない。つまり、ここではこのように考えるのが妥当だろう。ありのままに見よと言われた時はそれを言った相手は言われた方の意見を否定するか、違う考え方に目を向かわせるための方便を無自覚に使用している。そしてそれが方便かどうかはわからない。二重の意味で。それがありのままか、それを話したあいてのありのままの言葉か。

 

 

 

 

 

体力

精神と体力は無縁だと思っていたので今まで運動らしいことはしてこなかったのだが、最近精神的な体力についても落ちてきている気がして仕方がない。両者の関係がよくわからないがなにか一体となって減っていくような気がしている。元々疲れやすいという自覚はあったが、仕事がたとえ定時で帰れる時も左のこめかみあたりが無感覚になっている。

回復のために最も必要な事は睡眠だが、日々の生活の中で疲労しないためのうまい方法はなんだろうかということを考えてみた。それは細かい達成感と自己認知のためのこまぎれの休憩ではないだろうか。なにかまずいことが起きそうなとき、必死になって挽回しようと思ってあれこれやってみるというのが仕事で多いのだが、そういう状態になっていることがそもそも精神力を削る原因であって、問題を解決するためにはあまり適さないということは十分ありえる。そこで足りていないのは自分への配慮だろう。目的へ向かって長く走り続けるための。

さて、精神と体力が関連しているなら、体力作りとして自分でもできるような運動といえば散歩くらいしか思いつかない。今年のはじめは早起きして1時間くらい高輪台のほうにまでブラブラと歩いたものだった。でもよく考えたら土日も同じように街でブラブラ過ごしている。昔は歩いているとネガティブな気持ちで胸が一杯になり、歩くことができなくなったりしていたが、最近は奇声をあげるほどテンションがあがっているときがある。あげてないけど。

そして、いつのまにか通りにある謎のインド料理屋なんかに吸い込まれていく。消費したカロリーを取り戻すために。

 

 

しっくりこない

哲学は日本人にとっては歴史的に深い付き合いがあるわけではない。アジアにおける哲学にあたる思想は当然あるが、これが哲学と同様のアプローチと論を展開していたというわけでもない。

なので日本人にとってはまず哲学を論じてきた人の文化的な物の考え方を知った上で改めてこの学問をアジアにおける思想と対峙させなくてはならないという問題があったように思える。

おそらくそのドメインにどっぷりと使った人間よりもそのような異端者のほうが哲学の問題には気づきやすいのかもしれない。それはおそらく違和感として、しっくりこない間隔として心にのこるだろう。ただ、それを形にして哲学の伝統に送り返してやることは相手の長い伝統を踏まえての発言になるためになかなか難しいのではないかと思う。西田幾太郎のような日本の哲学者はこのあたりを突破できた希有な人物だったのだろう。

ところで古典力学や数学といったものも、日本人にとって違和感のあるものの一つではないだろうか。すくなくとも古典的な議論に限ると、力学では質点という構成の素のような理想化された対象をあつかう。これは質量をもつが大きさのない点のようなものである。質点には一切の内部がない。その意味でアトムである。数学でも集合論という分野が要素の集まりとして数学を構築する。質点も集合の要素も共に理想化したものであるといっても良いし、逆に質点や集合から出発して物理現象や数学を作り出す元になるであるといっても良いだろう。

それはほんとうだろうかと考えるのである。質点力学と集合論の背景にあるはずの哲学と背景に

私たちは納得できるのだろうか。日本人でるならもう少し違う立場からこれらの学問を再定式化することは可能だろうか。おそらく、それに興味を持つ人自体が少ないだろう。しかし、それでもなお、おもしろがる人が学問を進めるだろう。数学を共通の学問ではなく、個々にスタイルと違う文化と密着した学問として発展させる。和算のように。そういう試みも面白いだろう。

 

 

 

言葉

最近、自分は言葉が出にくいことに気づいた。

何かを話そうとしたり書いたりするときに、一つの文章の連なりとなって言葉が流れ出る事が少ないことがある。いつもというわけではない。前から考えていた事や話そうと思っていた事を話す分には比較的流れるように言葉がでる。

特に人と話すことがない時間が多いときにそうなるような気がする。伝達することがない時には何かを構成する能力自体が失われてしまうのだろうか。そうだとすると静かなところで瞑想する毎日を送りたいと思っていても、ひとたび実現してしまうと認知症への道へまっしぐらなのかもしれない。ではそこで何らかの対話を繰り広げていたら。心の中では。

言葉は確かに誰かに伝達するための手段だけれど、考えをまとめるには確かに言葉に出す事ではじめてまとまる部分もあるけれど、何かを発する手前にある言葉になる前のものは、言葉ではない気がしている。それは何らかの発する欲望を伴うエネルギーのようなもので、私たちが真にお互いを理解し合えない根拠となるようなものなのではないだろうか。