物と貨幣

なんとなくポエムっぽい文章をかいた

むかーしの人は実際に生きるために物をうばったり、とられたりとか、殴られたり、酷い時には殺人を犯してうばったりする状況があったとします。
これを仮に限界状況と呼ぶ事にします。そこでは、おもに食料などの物を奪うためにこん棒を使い、またそれを守るために楯で防ぐような攻防があるわけです。

ところが、それがある時点で、食料をうばうのに金銭によって解決するようになる。これは不思議です。
これって、こん棒によって殴り殴られるという「暴力」の交換が「貨幣」の交換に変化したのではないでしょうか。

しかし、貨幣というのものは同時に反転する役割を持っています。
金銭の奪いあいのための暴力を引き起こすという方向です。

ここでは、一見、暴力交換が貨幣交換によって平和が訪れるかにみえて、
貨幣の奪い合いによる暴力出現も同時起こってしまう2面性があるようにみえます。

さて、そこから考えつくのは次の段階でしょう、
貨幣の奪い合いを貨幣によって行う段階です。
ここには暴力に関連する「生」は見られません。もはやその意味での「生」は隠されています。
貨幣は物である必要もないので、これは一つの生命体のようなものです。
ここで、人間は貨幣をやりとりするための導管となり、
その導管がつながることで金銭が導管をつたって流れるようになります。
人間はインフラの役割を背負うのです。そこでは貨幣が「人」です。
つまり、見方によって人間-貨幣の双対関係がみられるようになります。

さて、時代がすぎていくと、人間から機械が生まれます。そして機械から情報世界が産み落とされます。
貨幣はこの情報世界の中を蠢くことになります。

物理的な存在としての貨幣は限りなく質量がゼロに近くなり、光速度で地球を旋回していく。
この貨幣のやり取りはもはや人間すら介在しないやりとりとなる。

この世界において人間は何をすれば良いか、というと、そこにもきちんと道が用意されていて、
無数の情報上の人間を利用して情報的なお金を奪い合ったり、情報的な物を奪い合う事で、
一段階抽象化された「社会」を生きることになる。
そこには生も死も当然情報上のことであって、繰り返しも、コピーも、リセットも可能である。
ただ、そのシステムの外側にだけはいく事ができない。
そのシステムの外側には機械の層があり、その外側には暴力の層があるから。

私たちのゲームは、ここではシステムの雑音のようなもので
システムももはや役割をもたないので、この雑音を払いのけもしない
完成してしまったシステムは地球が外部から破壊されない限りエコシステムとして機能し続けてしまう。

リアルさといったものはそこではそもそも何がリアルであったかもわからない。
スイッチが入ると人の目がさめ、その人の頭が伸びていき巨大な赤ん坊の手のひらに吸い込まれる。
その隙間をキラキラした丸い硬貨が日の光を受けながら風に乗って運ばれていく。この硬貨がこの世界の人間である。

「人間の建設」

数学者の岡潔と批評家の小林秀雄の対談本である「人間の建設」を読んだ。

最初の印象は、ああ昭和ってこういう話を真正面からやりあうのか、時代だなぁと思うところもあり、お互いの分野をお互いが知らないのでわかりやすい言葉で話していて、自分たちの考えをうまく説明しようとしてて自分でもすこしわかるところがあり面白かった。本当にお互いが理解しているのかはよくわからない。例えば、岡潔が自身の数学の話をしているところの後で小林秀雄の応答がない。「そうですね」みたいな感じだろうか。途中でドフトエフスキーとトルストイの比較の話が出てくるが、これはお互いがわかって話をしているのでどちらもちゃんと読んでない自分には「そうですね」しか感想がなかった。。

岡潔の物理観の貧困さには驚いた。アインシュタインはリーマン幾何を使っただけで物理はそうやってできた数学を使うのだという話をしているが、これは違う。もしリーマン幾何がなかったら、アインシュタインはリーマン幾何を作っただろう。

また、岡潔の強調する情緒というものが少し理解できた。これは数学が基礎の基礎まで立ち返ると幾つかの公理から出発するが、それのうち、どれを選ぶかで矛盾がないので、根本的なところに数学者をやる人たちの中で情緒(ある意味、納得観、美的な選択眼)があって、それがまず大事なのだということのようなのだ。それで、日本はこの情緒が西洋にはない強みとしてある。という話になるらしい。これは実にシンプルな話で、ある意味当たり前のことなのだが本質的な話であると思う。まあ、自分としては公理も含めてそれは多様な「物理」が背景にあるからだと思うのだけれど。。

コミュニケーションの理論体系を数学の枠内に組み込むようなことは恐らく可能だろう。それがもはや数学とはよべなくなったとしても。
恐らく、それはぶるぶると動き出すから。

これをきっかけに少しづつ二人の書いた本を読んでみようかという気になっている。また印象も変わるだろう。