本音と建前

日本人は本音と建前を使い分ける気質を持っているんだろうか。気になっている。

「実はな。。」「金なんでしょ」「それは建前で。。」「ようするに。。と言いたいんだろ?」
こういう言い方はよく耳にする。

しかし、これって本音をすぐ暴露してしまう性格だというのが本当のところではないだろうか。

日本人(自分を含む)には建前が本音ではない事を暴露する必要があり、必ず本音としてなんらかの形で暴露しなくてはならないというルールが前提としてあるようにみえる。

これは西欧のように神が心の中までみていないからだろうか。単純に考えるとそういう話になりそうだが、それではアジアの国が皆同様な性格になってしまいそうだ。それに、神なき後の西欧社会でも、同様な本音と建前社会になっているようにもみえないのだが。

 

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光と声

考える事があまりできなくなっている気がしている。なので、考える練習としてなんとなくメモしていたことを書いてみたが、やはり考えているというより感じているだけのようだ。

なぜ目は閉じるのに、耳は閉じないのだろう。
声を発するからではないだろうか。私たちは光を発しないから。
では光はどこからくるのだろうか。星からだ。

声は地球上に満ちないのだろうか。
だれも声によって地球を照らしはしないのだろうか。
だれも発する事はない。だから我々が言葉を発する。

声は時間的なものだ。声から言語ができた。
なので言語には時間が内在する。
声を記録して光に照らして見えるようにしたものが文字だ。
だから文字は目を十分には使っていない。
だから物語は本質的に声に縛られる。書物も声に縛られる。

感覚のうち
触れる事で感じるのが舌と鼻であり、振動する事で感じるのが目と耳だ。
触れることで得られる情報は言語より大きいだろうか。
犬は鼻腔によって言葉を理解できないだろうか。