暇と退屈の倫理学

とりあえず今年最初の面白かった本、「暇と退屈の倫理学」。読んでみたい本が色々できた。

ハイデガーの発見した退屈の第2形式(気晴らしそのものが退屈を呼び込む)、これが不気味であって、退屈とは結局大衆社会であってもなくても直面せざるをえない問題のことのようだ。

しかし、では未開であるような循環型の社会では、彼らは退屈を感じることはないのだろうか。。恐らくこの本の筋だと彼らは単に第1形式(退屈させられている)を生きている、つまり動物に近いという結論になりそうな気がする。

ハイデガーは退屈の第2形式から逃れるためにはさらに退屈の第3形式(退屈であるという呼び声が聞こえる)へいき、そこで何事かを決断し身を投じるという行為を行う事ができ、それは人間の動物では行えない自由さであることを述べている。しかし、国分氏はこれに対しそのような行為こそが実は動物的である、なぜならそれは退屈の第3形式によって決意し身を投じることは第1形式への転換であって、それは悩むこともない目的のために他のことは目に入らなくなり、退屈させられるという主張を展開する。

人間は退屈とどのように向き合えば良いのか、本書に明確な解が提示されているとは言いがたいが消費社会(ブランドのような観念の無限な消費)を批判しつつもこれを浪費社会(浪費には限界があり満ち足りるような有限な消費)へのアップデートへと新しい生き方の模索している。そしてこれらの問題を読者に対して自ら考え取り組むように促している。

やはり最後に背表紙にもあるモリスのこの言葉が良い。即ち
「生きることはバラで飾らねばならない」

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魔術−道具連関

道具には使う側がいる。
そしてそれを作る側がいる。
両者をあわせたところに道具がある。

道具とは魔術である。
人は魔術を使うことで何かを生み出す。
そして生み出された何かが道具である。

私たちは、生み出された道具を魔術として扱う。
生み出した人を魔術師として扱う。

つまり、魔術使いこそが道具の創造者であり、
道具の創造者は魔術によって道具を作り出すのである。

そして、その魔術こそ道具である。
これを魔術−道具連関と呼ぼう。

魔術−道具連関のはるか先に世界創造がある。
そして、この連関の見えることのない根元にも世界創造がある。

さて、世界を創造した魔術師は誰であったか。

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注釈者

部屋を大分断捨離している。

本はよみそうなものからPDFにしている。服は着るもの以外は捨てる。ようやく少しかたづいてきた気がする。

そうしないとやりたいことがやるべきことに埋もれてしまうのだ。昔も、過去の参照をしつづけて、自分の研究に結びつけるのが大変であったように、過去の遺産、意識といったものは時には自身を妨害に導くためにあるような場合もある。

そんなときは一度それらを手放し、再び自由に空を飛んで好きに車輪を再発明することが望まれる。過去の文献の注釈者になりたくなければ。

物が自分の身の回りだけになって、いつでも移動できるようになったとき、精神的なノマドは発動する。鎖が切れた彼(彼女)らはフラフラと街に拡散し、人々と語る。そこから新たなノードが発生し、さらに沢山のノマドが生まれる。

彼(女)らに必要な事は

学者から学問をうばうこと

他分野から知識を盗む事

旅立つこと

の3点である。プロメテウスの火は今日も彼(女)によって夜の街をゆらゆらと照らしていく。

2014-01-05Tåå03:56:35+0900