虚無の構造

虚無について。(西部邁「虚無の構造」(中央文庫)より)

西部邁「虚無の構造」(中公文庫)を読んだ。以下は序章あたりを咀嚼してみたメモなので誤読している可能性あり。そのままの引用は面倒なのでやめた。

 

 

ニヒリズムっていうのは単純にいうと「この世界に意味はないし、人間に生きる意味も価値も本質的にはない」という気持ち(精神現象)のことで、19世紀後半に「現代」がニヒリズムの時代であることを指摘したのが ニーチェであるらしい。

ニヒリズムは彼の生きていた19世紀から20世紀へという時代の大きな流れで生じた特殊な気分であるというものではなく、人間が時間をある捉え方をするときに普遍的に陥ってしまうものである。

それはどのような捉え方かというと、時間というものが不可逆であって、現代というものが過去から連なった時間の最先端に位置するものであるという捉え方である。これは今の私たちには常識といって良い捉え方であり、そうであればこそ、全員がニヒリズムへ陥る契機を持っていることになる。

その典型例は自身の作り出す道具の価値に対し中立的であるという相対主義を持ち出すような典型的な「科学者」であるという。この指摘(オルテガの説?)は少し耳が痛かった。ちなみにこの本での科学とは、仮説からある主張(命題)を導出(演繹)し、その主張を実験で確認することによって認識されたとする営みのことで、すぐわかるように、認識されることが実在するとは限らない(し、そもそも理論負荷の問題もある)ので、実在についての疑念というのは払拭することはできない。

ただ、西部氏は科学がもたらす道具や技術の豊穣さの前にこれらの間のまったく関連性がないということはさすがに言えないという感覚らしく、科学の科学らしさというかパラダイムへ没入していく危うさを持っているのは、社会的側面の部分、例えば人文「科学」のほうであるとみている。

そして、相対主義というのは、真理といったものが各自の見方によってことなりうるという考え方にはニヒリズムが隠れているという。なぜなら、仮に真摯に自身と他者の異なる見方があるとするならばそこには必ず判断があり、そして判断がある以上、そこには優劣の基準を探すはめになる。すると、相対主義者は他者を拒絶(価値の否定、ニヒリズム)し自己だけを絶対視する「エゴイズム」ではないかというのである。しかし、他者を拒絶し孤立した自己の内には見いだすものなど結局は「虚無」であり、それを見たくがないために人は「自己」を祭り上げる。つまり自分が好きだ(良い)とおもったから好きだ(良い)という論理である。そしてそうして自分が決めたはずの「自己」の考え、行いも、よくみると結局は時代の範疇の中で皆おなじ考えをし、同じことを行っている。そうして人は大衆として振る舞うようになる。

人はこのような判断に対する葛藤から逃れ、この事自体を忘却してしまうが、忘却の後に残るのは不安という気分である。その不安が何にたいする不安であるかすら忘れられた不安である。

 

 

ニーチェはこのようなニヒリズムへの対応は消極的ニヒリズムであり、積極的 ニヒリズムと対比させ後者を推奨するが、積極的ニヒリズムはそもそも多くの人が実践し伝えられていくようなことを拒否している。西部はニヒリズムへのせめてもの対応策として、我々がニヒリズムに陥っていることをもしくは陥る可能性があることを前提としたうえで他者と話すこと(気遣い)、その意味で時代と自分を相対化し、時代が要請する気分を察知する事(歴史感覚)を提案している。そして現代はこの気遣いと歴史感覚が技術とヒューマニズム礼賛によって失われつつあるという見方をとる。

保守思想というものを知らず食わず嫌いをしていたのかもしれないが、ここまでの考え方はとてもよく理解できる。ただ、歴史感覚やヒューマニズムで何を切り捨てて何を持ってくるかで色々見解がことなってくるんだろうなという予感がしている。

 

その結果、我々は、「実在」について想うことを忘れ、「当為」について考えることを禁句とし、さらに「虚無」について語ることをやめたのである。(p32)

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