プログラミングとカント

朝から空気がざわめいていたが降らないと判断してノートPCを持ち出した。コーヒー代を払ってから、コーヒーチケットを買った事を思い出した。チケットを出せば良かった。でも出さなくて良かったかもしれない。よく考えたら隣の店のだった。

 

佐藤康弘のカントの純粋理性批判の解説を読むと、どうも直感と悟性のお話がオブジェクト指向を使ってデータ層から適合するデータ形式を取り出してモデル層でデータを加工する話に見えてしまう。データ層はあくまでコンピュータ側から見た抽象的な概念であって、実際の物理的な実在とは異なると思うと、そういったインターフェイスの向こう側がまさに決して到達することのできない物自体のように見えてくる。データを取得する入り口が直感で、データの形式が、直感が受け取る形式で、悟性がモデル層、悟性において加工したオブジェクトのクラスがカテゴリ(もしくは図式?)、構成力はビジネスモジュールのようなものだろうか。

そうすると、純粋理性批判において批判していること、つまり理性の限界とはこのようなものだ。実際のデータなしに理想としてクラスだけを考えてオブジェクトの連関を考えていっても、それを究極的につきつめてモデルを作っていくと必ず相互に矛盾するような設計ができてしまう(アンチノミー)。これをめぐって超越論的弁証論がなされるのである。。さて、このアンチノミーにおいて合理的神学、合理的宇宙論、合理的心理学等が問われるのであるが、特に、この合理的心理学において「私」への確信つまりデカルトの「我あり」、これはカントでは直感においてかならず関わってくるが悟性の概念の一つである。つまり、モデル層の1機能としてかならずデータを検閲する機能があって、それが「我あり」なのであるということだとすると、これはデータのチェック機能を担うことになる。

で、理性だけではアンチノミーに陥ってしまう我々だが、それでも我々はプログラミングを実践していかなければならないのだが、その実践方法としてカントの実践理性批判がある(ほんとか)。プログラミングは実践的であり、厳密な形式云々を言っていてもはじまらない。しかし、そこで重要になるのはプログラミングの目的ではなくむしろ規約のほうだ(道徳)といってるのがカントの言い分である(信じないでください)。

この規約は、いわばコーディングルールや設計パターンやDRY規則のようなものであるが、各自がおのれの規約を守っているだけではそれは道徳とはなりえない、この状態のことを格率と呼ぶ。では格率が道徳へと昇華するためにはどうすれば良いのか、これが有名なカントの道徳法則である。

「君の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理となり得るように行為せよ。」

つまり、「おまえが守っているプログラミングのやり方はたとえどのプログラマがやっても意味のあるやり方にしろ。」とカント先生はおっしゃっている。なんのためにとかは聞くな、これは定言命令だから!(えらい人がやれと言ったからみたいな。。)

そう、そうやってコードを書く事は決してプログラマを幸福にするとは約束していない。けれど、その規則を守ったプログラマは幸福であるべきだ。だって善いコードってそれをしたプログラムが幸せにならなければそもそも善いとはいわないじゃないか!

このようにして、普遍的規約を守りかつプログラミングをしたものに幸せを呼ぶものの究極のコーディングスタイルとして「最高善」が要請される。つまりプログラミングの世界には、ディスプレイの中に神(論理的神)はいないかもしれないけど、究極の善いコードを体現する神(倫理的神)がいるのかもしれないのだ。我々の心の中にはな。。

三批判書の最後、「判断力批判」が美と有機体について、つまりコードにそなわる美についての論であることはもはや察しがつくだろう。

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土曜日

88円のきゅうりを買おうと思ったが、さっきの駅前のスーパーで68円のきゅうりを素通りしてしまっていたので、悔しくて買えない。そんな一日を過ごした。

 

クリニックの扉は閉まっていて、何度確認しても今日は土曜日だし、電話はつながらない。1Fのラーメン屋のにぎやかな声が、壁越しに微かに響いてくる。

 

喫茶店を2件はしごして、カントにおける生命概念の章を読んでいたが、どうにも退屈で、作者が何を言いたいのかよくわからない。なぜ、自分はこんなにも生命に興味を持てないのだろうと思ったが、よく考えるとあの津波の後の原発問題にもまったく興味がもてないことを思い出した。

 

地震がきたら、せめて風呂に入っていないときにしてほしい。僕は戦争で徴兵される年ではないだろう。もちろん甲状腺にたまって死ぬ事より、環境で犯される余命のほうが怖いと思って、そう思った途端、それも嘘だと思った。

 

アンチノミーというのは面白いけど、カントってニーチェの裏返しにみえる。もちろん時間的に裏返っちゃってるけど。認知症でなくなったのなら、馬に抱きついてるのと同じだよね。だから時計の音がならないかいつも確認しているのだ。

 

 

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コード

 

少し歩くようになってようやく調子が戻ってきたような気がする。

調子を崩していて、遅刻をするようになっていた。

 

6時から6時半に起きて7時くらいに家をでて20分歩いて駅について、駅で1時間半くらい

ずっとコードを書いている。仕事でもコードは書くけど。これは自分のためのコードだ。

自分が育ているヒヨコ。ヒヨコは可愛いのだ。何度も何度も育てるのに失敗している。

 

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図式とかヒュームとか

数学、情報、哲学の初歩をいったりきたりしている。

 

圏論の図式

圏論の勉強会で色々と初歩的な質問をさせてもらった結果、図式のイメージが自分の中ではっきりしてきた気がする。図式はもともとは、圏の積のような特徴を普遍性から定義しようとすればごく自然にでてくるような概念だと思う。

圏の積なら任意の2対象をとってきたときに、そいつらへ射を延ばすようなやつらの中で必ず経由しくてはならないものが積であり、このやつらの中の間の対応を取り出すさいに、やつらってのは2点へ射をのばすようなやつってことと定義したいので、この2点を指すのに二つの対象を持つ離散圏からの関手を定義し、3点(やつらから一つとって、あとこの2点)でコーンというのを作って、そのコーン達(当然やつらの分だけある)同士の関係の圏を考え、そいつにターミナルがあれば、それが元の圏の極限であって、今は2点に対する積だよと考える。

で、今の離散圏を型と呼んで、この型と元の圏への関手を図式と呼ぶというような感じらしい。なんか極限の意味がすんなりわかった感じ。

この視点は驚きで少し世界がひろがった気がする。随伴も同じように理解したい。

集合論もそれ自身大変に自然や社会と密接なものだが、圏と関手いう特殊な関係性はさらに違う視点をもたらしてくれるようだ。

 

ヒュームの有機体論

放送大学の通信課題をやるために教科書の「哲学における生命概念」(佐藤康邦)を読んでいる。今日読んだのはヒュームの懐疑論に有機体論、生命についての思考が深く関与しているというくだり。以下はまとめてみたメモなので勘違い、誤読が多々あります。

18世紀のスコットランド倫理学は従来の倫理と異なり理性よりも感情を重視する点に特徴があり(フランシス・ハチスンやアダム・スミス)、それを倫理を越えて哲学一般の思考へと展開したのがヒュームであり、そこでは「理性は感情の奴隷である」と言及された。

ヒュームの懐疑論では因果、時空や物質、心身の同一性といった観念は単純印象とそれに対応する単純観念が想像力によって結合してできるものであるとされる(このあたりがまだよくわからない。単純観念と観念は後者が複雑なもの?)

例えば因果という観念は機械論には必要な観念であるが、これはヒュームによれば時間的に前の事象と後の事象が、「近くで」「続いて起こり」「必然的に」という要素で結合されることによって起こり、この必然性は起こっていることをたびたび目撃する人間の側に起こる信念(belief)であることから、因果というものが実際には人間の側の想像力が作り上げたものであるということらしい。

 

また、心というものは絶えず変化し続けるのに、なぜ私は自分の心が一つであると確心するのかという問題に対し、ヒュームはこれが有機体においても同様の問題があることを指摘する。有機体においてもそれを構成するものは絶えず入れ替わるので。このような視点はロックがすでに論じていたがヒュームにおいて異なるのはそれが目的論的に説明されることである。

 

例えば次のような説明である。船は個々の部品が入れ替わるが、船には共通の目的(海に浮かべて物を運ぶとかの)がある。個々の部品とこの目的を結びつけるのは「共感」である。誰の共感かというと我々の共感である。(つまりそれを我々がそれが船だと思っているからそれらの部品はその船の一部と思えるということか)

要するに、ヒュームにとって懐疑論と有機体論と目的論は密接に結びついている。これらの議論が世界の創造目的へ至る議論が「自然宗教に関する対話」(1779)である。

 

この論は三者(クレアンテス、デメア、フィロ)の対話からなる。世界は神が作った建築物であり、それは人が機械をつくるようなものと対応し、人が目的を持って機械をつくるように、神は目的を持って世界を作り、その証拠に自然に無駄がない(economy of final causes)というクレアンテスの神人同一説とそれに対して、神は完全で永遠なものであり人間とは根本的な隔絶があるとするデメアの説に対し、ヒュームの主張と思われるフィロの主張はそれ(自然に無駄がないといったもの)では神の目的を示せているとは思えないというものである。

フィロは、そもそも人間にだって目的(因)といったものを持っている事は示せるのかと問う。どこを見てみもそこには作用(因)しか見当たらない。ましてや神の目的等を知れるという説明にはなっていないことを主張する。

 

これは自然神学的な発想の否定であるが、ヒュームは物質的世界そのものに目的の内在を見いだす。物質的世界は秩序を持っているが、その秩序を自分自身が持っている。そしてこの事を想定するということが、それが神であることを想定しているということを主張しているのである。そして物質的世界にいるその自分自身として秩序をもつものとして生物(有機体)をとりあげるのである。

 

そしてヒュームは宇宙そのものと生物との類似性を考える。宇宙の絶えることのない循環、消耗と補充といったものは生物における自身の保存と対応する。つまり、宇宙には極めて濃密な「共感」があるとするのである。このようにして生物と宇宙、魂と神といった対応をみていくような、これは機械論のような外部から目的が与えられるものとは異なる、目的の内在するような物質観をヒュームは持っていた。

 

このような目的論的な問題はカントとの「独断のまどろみ」とはまた別の対立軸となっている(らしい)

 

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信じること

 

尾崎豊だったか、

 

「決して裏切るなよ」

 

その瞳の奥には、「決して裏切れない」体験を持たない者の悲哀が隠れているのだと思う。

もちろん、そんな体験を持つ者だって、それが本当であるかはわからない。

なんせ そこにこそ本当に深い川が流れているのだから。

 

加藤諦三の本かなにかで読んだが

大きな木をそれにしろという。哀しい事にもはや人間ですらない。

でも、それで良いのではないだろうか。

「本当に裏切らない」という確信は信じる事でしかもはやできないのだから。

 

そういう意味で、神というのはよくできたシステムだと思う。

一方で、仏教では「釈迦はあの日に悟った」ということを信じるという信仰のみを持つ。

悟った内容がわからないところがポイントだ。何を悟ったのか。そこから数千年の流転が始まる。

 

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神とかそういう話

本日も晴天也。起きたのは夜だが。

 

真っ暗な世界、それだけがその人のすべてだったら。今のような気持ちになるんだろうか。

 

隔離児という監禁された状況で育った子供達がいる。

19世紀のドイツのカスパー・ハウザーは発見されたときは16歳で言葉すら話す事ができなかったらしい。暗闇の中で最低限の世話をする男の手だけが唯一の人とのつながりで、それが彼にとっての楽しみだった。

そんな彼が保護され、光の中で外の世界を見た。その時、彼は初めて自分がどのような状況におかれていたのかに気づいた。あの温もりが自分を監禁した者のそれであった。

自分は今までの人生がただ奪われていたことを自覚した。そして彼は衰弱していく。そして、ようやく言葉を話せるようになった時、彼は口封じに殺された。

 

キリスト教

キリスト教の人は旧約聖書も信じていると思うのだが、天地創造からはじまる一連の事を今でも信じているということなのだろうか?それともあれは一連の何かのたとえ話として理解しているのだろうか。

他にも堕天使という概念がよくわからない。天使というのは神を自ら賞賛するための自由意志を授けられているという。で、天使の一部が人間の女性を見て美しいと思い関係を持つ。そして一連の知識を与える。神は怒り天使は堕天する。人間との間には巨人が生まれる。この巨人は背が1000m以上もあったらしい。(堕天使の話はエノク書等の偽典の方にかいてあるようだ。)

この話は知恵の実を食べたことで追放されるアダムとイブの話を繰り返しているようにもみえる。この時、追放されたのは人間だが、今回は天使だ。知恵の実の話では、蛇は罰せられていないのだったろうか。

神と自由意志の問題ははじめから矛盾しているようにもみえる。矛と楯の話のように、すべてを決めている神がいるなら、当然、自由な意志というものもすべて決まってしまっているのではないかという事になり、それは矛盾しているということになる。同じ議論は、神が完全なら、なぜ世の中には悪があるのかという話も近い。

 

ニュートン力学では世界は決定的であり、因果的でもある。神の一撃が世界の始まりか終わり(もしくはその間のどれか)を決定したのなら、ニュートン力学の決める因果律によって物質の世界は完全に決まってしまう。仮に、精神というものがすべてこの物質の世界の現象に過ぎないとするなら、この世界は完全に神の調和のもとにある。ここに人間の自由意志はないようにみえる。

ところで、この決定的であることと、因果的であることは異なるものだと自分は思っている。

つまり、因果的でない決定的世界はある。それは、どの瞬間にも世界は決まっている(1万年後であろうが)が、それは他のどの時刻にも因果関係がないような世界のことである。

 

以上の話は、一つのニュートン的な時間の話だが、相対論や量子論を加味すればもっと違う話となるし、そもそも、この議論には最大の問題である未来、今、過去とは何を意味するかが抜けている。

 

相対論的に一つまず考えられるのは、時間という概念は相対的になっているので、むしろ固有時という概念が重要であることである。しかし、これに加えさらに不思議なの事がある。それは我々が「いま、ここ」というとき、何が「いま、ここ」なのかということである。人間は決して点ではなく、大きさを持つ物質から構成されているので、そのうちの何かを特定する事は不可能である。強いていうなら、私はある時空の領域にいるということを主張することになるが、それは単に人間は物質を素材としてできている一種の現象であるから、当たり前と言えば当たり前である。当たり前にならないのは、自我を考えたときのみであろうと思っている。そして、「いま、ここ」という視点はまさに自我の問題であると思われる。

 

考える

ちゃんと考えると、3時間くらいの時間はすぐ過ぎてしまう。そういう事をしていると人生経験がますます少なくなっていってしまうのではと最近考えている。何を言っているのかというと、例えば、人里離れて修行している人物がいたとして、彼(彼女)は何か真理をつかむ前に、人間の機能が失われてしまうのではないかということである。まるで隔離児のように。

大人になってからそのような環境になっても、元々話したりできるなら大丈夫と言えるかもしれないが、実際、ベトナムではベトナム戦争で家族を失って悲観してジャングルで孤独な生活を送っていた親子が40年振りに保護された際に、言葉を話す事がほとんどできなくなっていた。(産經新聞)

 

考えるということが、仮に言語を用いる事を主とするならば、その行為の基本には対話が常に必要とされているのかもしれない。もし、山奥で正気を保ちつつ真理に至れる人がいるなら、その人は常に対話を続けていたのではないだろうか。自身か、友か、もしくは神との?

 

 

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