雑感

愛するということ

またスティグレールの本を読み出した。改めて読むと色々考える事がある。幾つかfacebookで議論する予定。

フランスでも極右が台頭した。それをどう見るとかということ、かれら伝えたい言葉は、日本の問題としても考えられるはず。

 

ラジコ

ラジコのmac版の予約アプリにシェアウェアでラジ録というのがある。これで放大のラジオがまとめて聞けるかもしれない。

朝に一駅分歩いていく事にしたのでその間のお供に聞いてみようかと思っている。教科書ではわかりにくいことも、ラジオでさらさらと流れていく言葉を聞いているとなんとなく理解できた気になってしまう。これは凄い効果かもしれない。面白いのは読みなどに学習の障害を持った人でもラジオ学習ならうまく適応できる可能性がある点だ。そのような人にとっての可能性を開いている側面もあるのではないだろうか。

 

おとくな生き方

目の前に理不尽に思われることがあるとき、ただ見方を変えて問題自体をなくしたり、欲求そのものをなくしたり、そういった対処の方法ではうまく適応できない場合もある。そんな時は「それをするのと、しないのと最終的にどちらがおとくか」を考えて行動すると良いような気がしてきている。「おとく」というのは当然だが、自分だけが良いというのは入っていないつもり。寄付をするのも、摂生を心がけるのも、良い行いをすることも、トータルでみんなと自分がお得だからだとすると、あまりふんぞり返らなくてすむし、自制もききそうな気がする。どうでしょう。

通勤ストレス

通勤ストレスは甘く見れない。人が非常に近くにいる、何か音を出している。隣が誰かもわからない状態で何十分もともに過ごすのは大変なダメージだ。これはできる限り回避した方が良いと思われる。同様に仕事中のストレスもある。ストレスはある程度必要とは言われるが、場合によるだろう。自分は色々な音に対して犬のように気になってしっぽふって走っていってしまうので、刺激のない部屋でワンコ用のおもちゃで遊んでいたいタイプである。

シュレディンガー方程式を解く

シュレディンガー方程式をブラケットでとくとよくわからないところが出てくるようなきがする。

PDFにまとめたもののリンクを貼っておきたい(20131028)

 

ひも

量子力学輪講会で場の量子論の枠組みを少し説明しようと思った。

最初にやろうと思ったのはそれとは無関係に超準解析による量子力学の議論で理論構成がどれだけ簡単になるかを見ようというものだったが、数学基礎論のどつぼにはまって数日を費やしてしまった。そこでもっと基本的な部分の基礎からやろうと、昔の卒論での疑問にそいつつ相対論的場の量子理論について少し調べたりしていた。

量子力学と場の量子論の間には越えがたい壁があり、その間は神話や歴史で覆い隠されている。他のみんなはその先の話をしたいのでそこの部分についてはうまく自分を納得させる形ですませるているか、数学の厳密のドツボにはまってそこから出られないかのどちらかといった感じである。自分はどちらも中途半端で、とにかく基礎がわからないわからないと言って先にすすめなかった。超ひも理論を研究するようになって。実はそのあたりのわからなさは超ひものわからなさにつながるようになった。そこをさけてうまく論文を書いていく華麗なことも、じっくり厳密に数理物理を解いていく方法も自分にはできなかったので、これはわからない。これが議論されてない。ということをただワーワー言って、自分はずっと論文にもならない1次元の場の量子論と称したものを勝手に計算していた。

あの頃、放置しつつもたまに議論してくれた指導教官は、「君はもう少し何かが足りなくて、おしい。」「基礎の方に関心があるようだ」ということをおっしゃっていて、それは今では非常に貴重な意見だったと思う。確率過程やtwistor emebedなどの怪しげな理論を見せにくる学生を馬鹿にせず話をよく聞いてくれたものだ。

社会人になって、なぜか勉強する時間が大量に増えた(寂しい人生)なのでこれまでにないほど色々な勉強会に顔をだし、数学や物理を広く勉強したり、哲学や美学の人と議論をする機会を得た。

自分は基本的に、常々奇手だけをぶちあげていきたいと思っているタイプである。総合的な知識が絡み合って、別の次元の知になることを恐れない。正当な研究はプロに任せておけばよく、我々は違う武器で違う荒野を切り開く、これが在野の使命だろう。

プログラム

プログラムを書いていた。

プログラムは、コンピュータが理解するようでいて、実は人間が読むためにある。

コンピュータはプログラムから変換されたものを理解しないで実行する。

理解は人間の側にあるし、人間がより読めるように進化している。

 

プログラムというのは非常に簡単で、単に、あれをしろ、これをしろという事が文章で書かれているだけである。

日常言語より簡単なので誰にでも理解できる。苦手意識やプライドがじゃましない限り。

 

しかし、あれをしろという手続きを延々と書いていくはめになるので簡単に内容が複雑化する。

もっと高い次元で、それらをまとめる考え方を作っていくというのは、まさに人間らしい頭の使い方だと思う。

そういうわけで、より高い表現力をもった書き方としてオブジェクト指向という考え方がある。

 

簡単に説明すると、あれをしろ、というのはそれをする何かがいるということで、それをオブジェクトという。

オブジェクトは、何ができるか決まっていて、大体一つの役割(債務)を担当するのが理想である。

プログラムはオブジェクトを作ったりオブジェクト間の関係を定義したりして、これらに作業を依頼し、オブジェクトは

共同でそれをこなす。ここで、少しだけ、集団をまとめる組織論と話が似てくる。

 

オブジェクト指向にはデザインパターンという定型の戦略がまとめられており、複雑に書かれているものもあるが実際は

とても簡単で、興味深い戦略がいくつも書かれている。これは日常で普段私たちが行っている作業ととてもよく似ている。

 

以下は単に素人意見だが、自分はオブジェクト指向は数学の表現力の増したもののように感じている。数学がダイナミズムをもつと恐らくこのような形をとらざるを得なくなる。つまり、数学はオブジェクト指向のある部分集合になっているはずだ。

そして、実はこれが重要で、表現力が落ちる分、信頼性や予言能力は数学の方がはるかに高いのだ。これは、戦術として、プログラミングの際にいかに数学を構造として取り出してくるかが、コードの透明性や拡張性に関わってくるのではないかということだ。もちろん、ここでいう数学とは微積分とか数の足し算とか、そういう矮小なことをいっているつもりはない。しかし、逆にプログラムで微分演算が成り立つ部分があれば、それは非常に興味深いコードになると思われることも確かである。僕がここで使えそうといっているのはもっと原始的なものである。

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お経、直感、多世界

進撃の巨人

gyaoで一話無料とのことで見てみた。漫画に忠実に非常によくできているが、オープニングがよくない気がする。もっと内容にあわせた良い歌だったら良かったのにやたらあつくるしい印象。内容は面白かった。血が飛び散ったりするシーンとかも、「あ、これ描いちゃうんだ」という感じで適度にグロいです。。

 

般若心経

般若心経の超訳のような本を読んだ。非常にわかりやすかった。(現代語訳 般若心経)

だいたい、こんな感じだろうか、五感やそれを通じて得られるものはすべて幻想(空)だし、私というものも幻想、すべては、何か原因が関係しあって複雑に織り成されており(縁起)、部分に分けては決してわからないし、そもそも言語等で名付けると本質が逆に見えなくなる。釈迦が最初に説いていた苦しみの分類等もすべて分けて考えているのでそれはそれも幻想だ。全体をそのまま受け入れよ。

さきほどの見た脳科学者の話では、左脳と右脳はお互いに通信しあうが、左脳は過去や未来をとらえロゴス的で、右脳は今しかみない、という話があって、そういう意味では右脳指向とでもいう感じだろうか。

ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作

 

自分としては、そうであるからこそ、人間は「私」や「言語」で捉える試みを放棄してはならないのではないかと思ってしまう。たとえば、詩はそうした試みの一つではないだろうか。

そして外部から「悟り」はカルトと見分けがつかない。

般若心経の写経を見ると空海が几帳面な感じで、良寛は丸字だった。書の良さはよくわからないが良寛とは友達になれそうな気がした。

直観主義論理学

教科書をみながら直観主義論理の自然演繹の計算をしている。シーケント計算と比べて、自然演繹は推論の出し入れができて、よりブロック単位で計算ができるような気がする。そういう意味で自然なのだろうか。

論理学はアリストテレスの時代に言葉で記述するレベルで三段論法のようなものは整備され、その後重要な発展はなかったが、数学の成熟とともに、フレーゲにより記号を用いた論理学が発展し、数学の基礎付けに利用された。

直観主義論理は数学の危機という時代が訪れた際に、数学を公理からの論理的な推論によって基礎付けるヒルベルトの形式主義と、排中律のような、人間にとって真に知り得ない(実際に作ってみせる事ができないのに存在は示せるといった)ことはできないということを主張するブラウアーの直観主義という論陣が出現し、この直観主義の用いる論理を整備された形でまとめたものだということができる。我々の知っている論理学は通常、古典論理と言われているもので、ようするに「ある」と「ない」についての2元論的な(意味をもつような)簡潔な学問なのだが、直観主義はそれとは異なる意味をもっている。

どうもこれらの古典論理は、証明論においてシーケンス計算と呼ばれる表現方法を用いると表現しやすく、直観主義論理の方は自然演繹を使うと表現しやすいというような色々な特徴があるらしい。それがなぜなのかは自分にはよくわからないが、シーケンス計算というのはどうにも対称性がみやすい形をしていて、自然演繹は局所的な一連の記述のブロックを見やすいというような特徴があるようにもみえる。

直観主義論理のようなものは非古典論理と呼ばれ、他にも多数の論理があるようだ。これらの関係等を探ってみるのは面白い事かもしれない。しかし、普通、論理というものは一つしかないと思いがちだが、論理というのは場合によって使いわけるようなものなのだろうか。

 

多世界解釈

エベレットの論文を引き続き輪講している。エベレットは、観測するものと観測されるものをそれぞれ部分系として含むような全体を考え、その波動関数が記述するものは何かと考える。全体は波動関数で記述されるが、それがエンタングルメントしているような状態では、ここの部分の状態は自身のみからで決定しているとはいえない。そこで相対状態という概念を導入し、一方の部分の状態が決定しているときのもう一方の部分の状態を考え、これを相対状態と呼ぶ。

すると、全体の波動関数はこれらの相対状態の和で書ける。このような考えは相対性理論のやり方ととてもよく似ている。しかし、記述方法が全然異なっている。その違いはなんだろうか。

ところで、エベレットは、波動関数を基本的な物理的存在(entity)と呼んでいるが、それはエベレットの信条表明のようなものと見てよいのだろうか。

2013-10-06Tåå01:25:57+0900

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑感2013.10.02

本日も晴天也。特にネタもなく三日坊主に近い状況が続いているこのブログですが、これだとあれなのでもう少し自分のネタ帳や読書録的なものにしていこうと思います。

1.1 社内のプログラム勉強会がありました。

効率の人、可読の人、実装期間の人のバランスが実務なのだなぁ。

自分はなぜか理系なのに可読こそが重要だと思っていたので、どうにも効率や、それをふまえたアーキテクチャからの理解ということを軽視しすぎていたのかもしれません。

Objective-Cのやり方はなるべくオブジェクト指向で書こうよだと思っていたので効率は後で考えようぜ的なお気楽実装をしていたのでした。まあ、JAVAOnlyの人はもっとそういう考えになってしまうのかもしれません。

手続き型の、それこそマシンに近い方の部分の考え方やアルゴリズムを少しやらないとと反省しました。あと、fizzbuss問題をできない人の気持ちがわかりました(この問題はプログラムがわかっているのか一番最初に出されるような簡単な問題のことです。)。

1.2 関数解析

関数解析のテキストを少しみはじめました。週末に代数的場の量子論の講義に出て、数学的な厳密さも大分物理っぽい(?)なぁと思ったのもので。

どうも、自分は完備や収束の議論をおろそかにしがちで、その辺りのありがたみがよくわかっていませんが、なんとなく

「何かが存在する、具体的には構成できないけどな」

もしくは

「これ以外にない」

とか、

「その領域にはない」

とかを主張したいときに使うのだと思っています。

 

そんな事は実際の物理で言える事は少ないから使わないのかも。

ただ、熱力学とかはどうなのでしょうね。かなり存在定理のようなものは言えてしまうのでしょうか?

1.3 睡眠

最近自分がロングスリーパーであることを確信しました。

7時間以上寝ると調子が良いみたいです。逆にそうでないと死んだようになります。

寝る直前になってエンジンがかかることが多いのでいつも寝るのが大変なのですが睡眠薬で無理矢理寝るようにしています。睡眠導入系の薬なので寝る直前まで何かをしていると記憶が飛んでしまうことがあるのが怖いです、が面白いです。

ちなみに睡眠導入剤と言われると睡眠剤より軽い薬なのかと思うのですが、同じく睡眠剤で単にどの時間帯で効くようになっているかの違いだけらしいです。

そういえば昔はハルシオンを飲んでいましたが、ハルシオンは中2病っぽい名前で好きです(告白)。

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