論理ABC

論理学という言葉を聞いた事があるでしょうか。

 

「カラスは鳥である、鳥は羽を持つ、よってカラスは羽を持つ」

みたいなものでこれは三段論法と呼びます。これは(古典)論理の一種でとても簡単ですが、ややこしい文章を整理するのに役立つ事もあります。そして、実際に役立つばかりでなく、非常に深い奥行きを持っています。

これは分解すると、三つの文章に分かれます。

 

 

「カラスは鳥である」

「鳥は羽を持つ」

「よってカラスは羽を持つ」

 

このうち

「カラスは鳥である」

「鳥は羽を持つ」

は前提で、

 

「よってカラスは羽を持つ」

 

は前提から導かれた結論です。

 

なので、これを

 

「カラスは鳥である」

「鳥は羽を持つ」

「カラスは羽を持つ」

 

という三つの文章が組み合わさって

 

もし

「カラスは鳥である」

かつ

「鳥は羽を持つ」

ならば

「カラスは羽を持つ」

 

のように表す事ができます。 このような文章(主張)の一つ一つを「命題」と呼びます。わかりにくい呼び方ですね。このような命題に関する論理のことを命題論理と呼びます。

 

命題はあってるかあってないかがわかるようなものなら何でも良いので

 

もしAかつBならばCである

 

のように文字で省略すると、その構造がわかりやくなります。さらに、記号を導入して

 

A ∧ B → C

 

にように書くことができます。「∧」や「→」は論理記号とよばれ、「かつ」や「ならば」を省略して書いてると思ってみても良いと思います。論理記号は他に、「または」、「でない」があります。

 

「かつ」 ∧

「または」 ∨

「ならば」 →

「でない(否定)」 ¬

 

ここで、とても注意すべき点があります。論理学では「AまたはB」と言ったとき、「AかBのどちらか一方である」という意味ではなく「AかBの少なくともどちらかである」という意味になります。

「お茶か珈琲下さい」と言った時、お茶と珈琲両方差し出すことはあまりない気がしますが、

「チョコかクッキー下さい」と言ったとき、チョコとクッキー両方差し出したら喜ばれますね。つまり、普通の言葉遣いでは文脈に依ってしまうようにみえます。なので、曖昧なく伝えるには「どちらか一方」等の言葉を付け加える必要があります。「AかBのどちらか一方」というのは排他的論理和と呼ばれます。

 

なぜ、論理学では、「または」という言葉が「少なくともどちらかである」という意味で使われるのでしょうか。これは、「かつ」と「または」をお互いがお互いをひっくり返したものとして扱いたいからだと思われます。例として

 

「犯人は男性であり、日本人である」

の否定である

「犯人は男性であり、日本人である、ということはない」

「犯人は男性でない、または日本人でない」

という言葉と等価であるようにしたいのです。これは記号で書くと

「犯人は男性」∧「犯人は日本人」

の否定

¬(「犯人は男性」∧「犯人は日本人」)

¬「犯人は男性」∨¬「犯人は日本人」

 

となります(これが「犯人は男性でない、または日本人でない」であることを確認してみてください^^)。括弧は「ということは」程度の意味です。このような否定を通した「かつ」と「または」のお互いにひっくり返った関係を「双対性」と呼びます。

 

さて、この「かつ」「または」というのはそれぞれ「論理積」「論理和」と呼ばれる事があります。なぜ積や和と呼ばれるのかと言いますと、

 

「AかつBかつCかつD」

 

は、A,B,C,Dのどれか一つでもダメなら全部だめになります。これは、Aであったら1、Aでなかったら0などの数字をあてはめると

A×B×C×D

の値が1であるか0であるかということに対応していることがわかります。

 

そして、

「AまたがBまたCまたはD」

 

は、A,B,C,Dのどれか一つでもOKなら良いのでこれも、

A+B+C+D

の値が1であるか0であるかということに対応しています。このように、0か1かという値を当てはめる事で(古典)論理を計算することができ、これをブール代数と呼びます。

 

Aであるという主張(命題)と実際にAであった(数字として1)ということは異なる事に注意してください。1か0を割り当てるというのはその主張の真偽を吟味しているわけで、これを「意味」という呼び方をします。今の場合0,1という二つの値を割り振るので2値の「意味論」と言います。

0か1というのはスイッチのオンとオフと対応させることもできるわけで、これはコンピュータの計算に使える事がわかると思います。

 

長くなってしまったので、続きは後ほど(続くのか?)

 

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世界の入り口

日常の世界に誰もが通り過ぎてしまうような所で、ふと視点を下にずらしていくと、アスファルトから生えている草の陰のようなところに謎の門や鳥居、ぽっかりと空いた穴のようなものがあったりします。

 

例えば、地球が一枚の地図で描けないことを、小学生の頃知った方は多いでしょう。あれが幾何学の世界の入り口です。

 

その入り口は、恐らくクラスの誰もしらないかもしれません、もしくは、その扉に手をかけようとして、もう一人の隣のクラスのだれかとはち合わせるかもしれません。

 

たとえば、私たちが今、はじめて「火」という現象の出会うのは、ガスコンロをかちっとひねった時に現れる青い光ではないでしょうか。あれは一体なんなのでしょうか。

 

あれは、私たちの肌、腕、服、建物、機械、木々、魚、どれとも違います。水でも空気でもありません。

あれは光をだし、蠢いています。触れそうで触れません。どこになるのかもゆらいでいき、あるとき生まれ、あるとき消えてしまいます。

 

ここに火という現象があるからだ。と私たちは思うでしょう。しかし、ここに火という現象があるとは一体どういうことなのでしょうか。

 

これが僕にとっての一つの入り口でした。

 

そしてまだ、答えは見えてません。

 

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自我体験

自分というものが発見されるようになったのはいつの時代からなのかということに興味があります。

いわゆる自我体験は、日本人のかなりの割合の人が小学生から大学生の間に体験するようです。

 

この自我体験ですが、近代より前の時代ではそこまで頻繁に起こっていたものなのでしょうか。

仏教の教えなどを見ると、多くの人が世の中の苦しみを逃れるために仏教の道に入ります。

しかし、本来、仏陀が苦しんでいたのは生病老死であるなら、それは、苦難を感じて世を儚んで仏門にはいるその後の人たちと根本的に苦しみの起源が異なるし、それは、今日の自我体験とも異なっているのではないかと私は感じています。

つまり、私は自分が発見されるようになったのはつい最近のことであって、歴史上、我にかえったことは今までなかったのではないかと思えてくるのです。まあ、これを突き詰めるとすぐ独我論に行きつきますが。。

何度もこの問題に立ち返ってしまうのですが、結局、私を起点にものを見るとは果たして何を意味するのだろうということについて、現代ほどそれがわからなくなってしまう時代はないような気がします。

たとえば、犬に苦しみはない。なぜなら我々は犬を叩こうが犬がそれで泣こうが、それで犬が苦しんでいるということはわからないからだ。という主張は間違っているのでしょうか?私にはわかりません。同じ事が言語にもいえるような気がしています。言語で表現できないものはない、と言ってしまうことで、私は目の前にある「それ」が語る現象を語られるままに書き写すしかその存在を認められなくなってしまう気がしてしまうからです。

私は起点となりえない。私のもろさがこれほど露骨に現れた今日、容易く無意識に支配され、いくつもの人格へと分かれていく今日、めまぐるしく変わる環境に合わせて私を作り替えていく今日、分散しちりぢりになって漂う空虚を「日常」という言葉の暴力によって消し去ってしまった、そしてそれすら忘れてしまった今日。私はすでに起点とはなりえないのです。

しかし、それ以上に、「この世界」が起点とはなりえない。なぜならその実在性がすでにあやふやなものになりつつあるからです。

最終的にはここに集約されます。

 

「この世界を誰が見ているのか」

 

見ているとは、知っているということと同じでしょうか。かつてなら神が見ているとすれば良かったのですが、近代なら人間と言えば良かったのですが。そして、独我論者なら「私が」といえば良かったのですが。

 

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ボグダノフ

 

ボグダノフ事件という事件があります。これは、フランスの科学テレビ番組の司会者だったボグダノフ兄弟が大学院で博士号を10年かけてとった際に、ほぼ内容的にはデタラメと思われる専門用語のサラダのような論文を物理の複数の雑誌に送ったのですが、その幾つかで採用され、掲載されたというものです。これは、物理の論文の査読審査が機能していない事が暴かれてしまった事を示しており、思想の分野でもっと意図的に行われたソーカル事件と同様の意味を持つ事件です。

 

しかし、今ではほぼ否定されているとはいえ、ボグダノフの論文には、なんらかの価値があったのではないか、というのが僕の直感です。一つは、ほぼ誰も理論を提出できないような領域である、宇宙の初まりの特異点を、時空の真空凝縮の視点という発想で切り込んでいるようにみえること。もう一つはよく知られた理論的な言明を他の(より複雑な)表現方法で記述していることの二点です。もちろん論理的に破綻している内容だとしてです。

まず、それが従来知られていない事や注目されていないことに何かのアイデアを持って切り込んで行くというのは正しい行為であるし、そこではあらゆることを試してみるべきで、時にはおかしな発想とおもわれることも試されて良いと思われます。また、一つのトリビアルな表現を異なるより特殊な表現方法で語るというのは表現方法の豊穣、道具を増やすことにつながることで歓迎すべきです。

論理的破綻の部分ですが、これは論文の審査においてきちんと破綻部分を指摘すべきだったのは当然です。しかし、もしこの論文が審査を通らなかったとしても、一つの詩の形をとった形体としての可能性は残されていると思います。

Arxiv(もしくはviXra)への掲載、なんらかの雑誌が破綻部分を修正させるか削除、もしくは論理的破綻をコメント付きで承諾して載せるというのが良かったのではないかと思います。

 

ちなみにArxivというのは作者が論文を出す直前に全員に回覧するために投稿するプレプリント(ないし論文そのもの)を集めたサイトであり、理数系の論文はほぼこのArxivに投稿されています。Arxivは分野が違う等の最低限のテェック以外の審査はありません。viXraはその最低限の審査さえ嫌う人たちが完全投稿自由な論文サービスを目的に作ったサイトです。

Arxiv http://arxiv.org/

viXra http://vixra.org/

 

ソーカル事件で批判された現代思想も、ボグダノフ論文も、数学的、理学的間違いを訂正、補完した上でまだ何か有用なことを示しているのかということは興味のあることです。その際は、テキストをもっと正しく言い換えて言っても良いのではないか、とも思います。

 

そして、最後にアナロジーの視点です。アナロジーのための数学、アナロジーのための物理学。こういった視点は従来、あやしげな与太話程度にしかみられていなかったことは確かです。しかし、複雑でより曖昧な問題を切り分ける道具としてのアナロジーはある程度、許されるのではないかと条件付きで思います。理学用語の適切なアナロジーの取り扱い方法を理学側が提示すると良いのではないかとも思いますが、恐らく両方の知識を持つ人がほぼいないため、不可能でしょう。違いますね、両方の知識を持っているだけの人は一杯います。

 

 

 

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かなしみのないせかい

かなしみのない世界は幸せでしょうか。

永遠に生きるということは、無根拠であることとかなり似ています。

なぜ、今、私はここで生きているのか?という問いすら、そこでは成り立ちません。

 

 

瞬間という概念を初期に考えたのはプラトンあたりの人らしいです。瞬間と永遠。これは私たちの世界にはありません。

これらは私たちの世界の外側にあるとすると、永遠という概念を、昔の人は神に、瞬間を物理学として発展させてきた古代から近代の人たちの発想はかなり自然なものである気がしています。

 

例えば、実数を何かの集合で表すということは、本当に「この世界」を捉えているのでしょうか。それはこの世界の外側から、この世界を規定するような物の見方であったりはしないでしょうか。

 

世界の外側は、この世界からは常にそういったぼやけた情報の少ない何かでしかありません。瞬間にも、永遠にも、外側では、もっと深い意味と構造が隠されていたとしても、それが我々と関係していないからこそ、瞬間とか、永遠という言葉で理解したつもりになれるのかもしれません。

 

そして、瞬間と永遠が双対な概念であるとすれば、それは反転する可能性を常に秘めています。例えば、素粒子論で語られる弦理論のT双対性は、丸まった空間の半径がその半径分の一のサイズの理論と同等であることを示しています。仮に、この半径を無限大にもっていけば、そして、この双対が時間方向で成立していたとしたら?

 

さて、かなしみと幸せが双対であったとしたら。幸せしかない世界とは、それはかなしみの世界のことです。

そして、瞬間が永遠であるとすれば、私たちはやはり無根拠です。

 

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圏論の雑感

朝8時くらいから夜まで自宅でプログラムのコードを書いていました。それから22時くらいにふらっと近くのバーのようなところでなぜか親子丼を食べて近くのファミレスへ行き、圏論についてスケッチをしていました。

 

圏論というのは数学の分野で、点と点をつなぐ矢印で構造を表すような分野です。これだけだと一見、なにが面白いのかわからないのですが、構造と構造の間の関係もまた構造間の矢印で書いたりすることで、異なる構造の間の関係等を探ることができるのです。

 

例えば、点をある状況として、その状況から違う状況へいたる何らかの行動があるとします。この行動を射と考える事ができます。結局は同じ状況にいたるけど行動としては異なる行動もありえます。こうして、様々な状況から状況への行動が網の目のようになったものが一つの圏です。

さて、ある状況(目的の状況)へいたる行動を考えます。もちろん、その目的の状況へいたる行動は幾つもあります。目的となる状況へ、圏にあるさまざまな状況からどのような行動をすればいたる事ができるのかということを考えます。つまり、色々な状況から目的の状況へいたる行動にはどんなものかを考え、その行動の間の関係を考えるということです。

実は、これは一つの状況から目的の状況へいたる行動達(いわばある状況からの攻略ルート)を一つの点と捉え、行動の間の関係(異なる状況からの攻略ルート間の関係)を射と捉えれば、これも圏となっています。そして、最初に考えた状況と行動の圏から行動と行動間の圏を考えるという操作を関手と呼びます。ここで考えた関手はHom関手と呼ばれる関手になっています。

少し不正確な言い方でしたが、身近なものでイメージを捉えることができることがわかると思います。

これが何の役に立つのか、というと、構造がみいだされるすべての状況で、物を理解するのに役に立つのではないでしょうか。恐らく、日常や労働の中にも圏は潜んでいると思われます。

 

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パノプティコン

なんでフーコーのお話をつらつらと書いているかというと、店先でたまたま買った大澤真幸の「生権力の思想」が大変面白かったからです。こういうことをちょっと感じると、今の世の中のことも少しはわかってこないかなぁという期待をこめて。。

 

フーコーによれば、近代になって、暴力を背景とした権力(死への権力)から、生きる事を管理する権力(生への権力)に権力の構造が変化したそうです。そこでは、前に述べましたどのように善く生きるかという倫理的な生き方(ビオス)から、生身の身体を含めたより動物的な(物理的な)生(ゾーエー)に権力の関心が移っています。

 

その典型例として、身体を統制させるために、人間の精神を制御する技術としてよく挙げられるのがパノプティコンという監獄です。この典型例がなぜ重要かというと、同じような仕組みによる権力の働きが、現代では学校や病院、会社等の身近なところにありふれているからです。

 

パノプティコンは簡単にいうと、中央に監視塔があって、その周囲に独房がある施設で、特徴的な点は、監視塔からは囚人が見えるけれど、囚人からは監視人が見えない作りになっている事です。

 

この仕組みによって次のような事が重要になります。囚人には監視人が見えないので、実際には監視塔に監視者がいるかいないかわからないのです。この事が見えない監視人による視線が常に囚人を縛る事になります。この一方的な(しかも監視者の見えない)監視が囚人を規律を自らに課すように精神を制御するのです。

 

ここで、この権力が必要としているものは、自分たちの命令に自律的にただ従うような従順な身体を持った人間です。そのために、見えない監視者を置く事で人の精神を制御しようとしています。

 

当然、精神の制御と同時に、身体への制御も行います。それは、生活の至る所に規律をもうけたり、空間を分けたり、集団を分けたりすることで、人間を細切れの部品のようにし、周囲の機械や無生物、システムとの複合体になじめるように作り替える事です。

 

思い出してみると、学校で履いた靴の色の違い、学年がフロア毎に違う事、時間割、朝の挨拶、こういったことは確かに身体の制御を目的としていることがわかりますね。社会に出たときに必要とされる会社員をつくるために必要だったのかもしれません。

ところで、道徳のようなものは大抵これなのでしょうか?しかし、道徳は西洋ではキリスト教が、日本では世間の空気のようなものが強い気がします。身体の制御技術と道徳の関係はどういったものなのでしょうか。

 

参考文献

大澤真幸「生権力の思想」

中山元「フーコー入門」

 

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生権力

古代ギリシアでは「生き方」という言葉に二つの言葉があったそうです。

「ビオス(bios)」と「ゾーエー(zoe)」という言葉です。

 

ゾーエーは通常の動物が生きるような自然そのものの生を指します。そこには自分の生身の「身体」も入ります。

一方で、ビオスはより文化的な生き方を指す言葉らしいです。例えば何が善いことなのかという倫理に従って生きるといったことです。

 

ギリシアを含め、政治が関心を持っていたのは常にビオスとしての生でした。

政治は、常にゾーエーの排除のもとで行われてきました。

 

西洋近代では、そのゾーエーと関わる「身体」に政治の関心がうつり、かつての死をちらつかせることで行使する権力から、

人を「生かす」ことへの技術を駆使する「生の権力(生権力)」へと権力の構造が転換しました。

 

このことを指摘したのがフーコーの「知への意志」です。

 

 

(本記事は大澤真幸「生権力の思想」に大部分を依っています。)

 

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想像

小さい頃、電車の窓の外に忍者を走らせた事はないだろうか。

僕はいつもそうやって退屈な電車の時間をやり過ごしていた。忍者は屋根の上をつたって高速で走って行く。

慣れてくると忍者の数を増やす。いつのまにか、窓の外は忍者で埋まり、真っ黒になったところで、電車は地下へと潜っていく。

 

あの頃、雨は触れたら死んでしまう爆弾だった。街路は月面のでこぼこだったし、朝礼の校長の頭の上には、透明な階段が空へと続いていた。僕はその階段を登ってどこまでもいくのだった。

 

ほとんど何もしらなかったけど、何かを想像する事が好きだった。自由帳に自分の考えた設計図を描いた。無数の迷路と、探検した地図を描いた。

 

想像することは記憶と引き換えに消えてしまう。楽しい事や苦しい事、悲しみや、喜び。そういった人生のイベントの大切な一つ一つが、僕たちの想像を一つ、また一つと壊していく。

 

気がつくと、沢山の思い出でノートが埋まってしまって、もう描くことができない。

そんなノートを僕は捨てる事ができるだろうか。

 

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夢と現実という言葉がある。

夢が現実なのか?現実が夢なのか?は古くから言われていた。もし、この問いが許されるとしたら、世界は少なくとも二つあるはずではないか。しかし、私にとって夢が現実と同じであるとはとても思えない。

その人が現実の世界で見たり、聞いたりしたものが断片になり、変形されて夢の中に出てくる。つまり、夢の中で出てくるエピソードや物は、現実にあるものと対応するものになっている。すると、夢はその人が見てきた現実の再構成なのだろうか。このように考えるとすぐある疑問が浮かんでくる。それは夢が常に論理的に破綻していること。なぜ、なにを持って夢は現実を論理的に破綻するように再構成しようとしているのだろう。

夢は現実と無関係に無数に存在している。夢と現実がリアリティを持って存在しているとして、それを結びつける現象として、私があるとする。夢か、現実かではなく、夢も現実も存在しているとするなら、リアリティがないのは、むしろ私の方なのかもしれない。私が消えれば、夢と現実を結びつけていたものも消えるような。

不思議な事がある。私が現実を見て、私が夢を見ている。私は二つの世界を同時に見ている。だが、何故、二つの世界の吸い込み口として私がいなければならないのだろう?

少なくとも、他に3つの形態があるのではないだろうか。夢と現実から見られている私と、夢を見て、現実から見られている私と、現実を見て、夢に見られている私に。

夢は私の見た世界を素材として作られているように見える。私は夢を見るだけなのに、なぜその夢が私の見た世界を素材として使えるのだろうか。夢が私をみているときに、夢は現実を素材として私を作り出すのだろうか。

この時、私は論理的に破綻しているのではないか?

 

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