雑記

人間であることが最後に残るのだった。

しかし、人間とはなんだろうか。あらゆる動物のうちの一種、知能を持ったサル、文明。

例えば、哺乳類とはわかりあえる気がする。彼らは愛を知っているようにみえる。

おそらく魚には愛がない。単にそう見えるだけだけれども。

本当に最後に残っているのだろうか。

人間であること、それはわかりあえるための最後の砦のようなものだった。

殺しあうのではなく、そして私達が一人であることを越えるためのもの。

本当だろうか。

人間を超える愛が、生まれたとしたら?

もしくはそれを人間と呼んでしまうことにしたら?

私達が最後に残されたものすら人間であるというには

それを認めるだけの力すら私たちに残されないような

圧倒的な比較の、上位の、存在

そんなものを私達が創りだしてしまうとしたら。

 

仮想化

1.

人間は自然の摂理のままに生きるべきであるとする。ここでいう自然とはなんのことだろうか。おそらくこの現象界のことを指していると思われる。

私たちは還元してしまえば古くから言われているようにアトムから構成されていて、このアトムは物理法則で記述される世界に住んでいる。そう私たちは思っている。

2.

「アトムは記述されている。」のだった。このアトムは「物理法則」で記述されている。

ではアトムは記述される姿のまま実在しているのか。記述される「姿」とは何を指しているのか。

3.

食べるという行為も、味覚や喉越しのようなものは仮想なもので置き換えられるのだろう。ここで仮想といっているものは、模倣されたということを意味するのなら、一体何を模倣しているのだろうか。味覚だろうか。より根底にある物理法則だろうか。

4.

仮想化されているものの最初は言葉の代わりとしての文字だったと思われる。次に音だ。

今、視覚がそれに加わろうとしている。

5.

誰もがインターネットの階層の下にある層に興味をもたなくなるように、もしくは半導体の基盤のようなものに一人一人の物理的な肉体がなるのだとしたら。その肉体に興味をもたなくなることは不思議でもなんでもないことだ。

その手触り、風の囁き、すべてがむしろ仮想の側にあるようになるのだから。肉体の側はむしろ、私たちの皮膚の内側に流れている血や内臓のような見てはいけないものになる。

 

 

 

「普通」のプラトン達

ある人にとって書かずにいられないようなことはあるだろうか。多くの人は書かない。書けないわけではなく書かない。そもそも書く必要がないからである。それはなぜだろうか。

「日常」という言葉に怖さを感じている。それは「普通」という言葉がときに忌み嫌われる程度に批判されることすらない。むしろ日本では良い意味にすらつかわれている気がしている。本当に「日常」等あるのだろうか。自分が生きているこの毎日が「日常」であると感じるという思考にはすでになにかメタ的な匂いを感じる。これは私たちがそう思う時、それはむしろ「日常」として私たちがイメージする「普通」への欲求をさしているのではないだろうか。あの存在しないはずの「普通」、誰もがなることのできない「普通」への憧れが私たちを「日常」への肯定へと導く気がしてならない。

ソーシャルネットに表れる「日常」、私たちの会話に表れる「日常」、これらの様々な顔を伴って表れる「日常」がすべて、あの到達できない無限遠点に想定される「普通」に向かっている。私たちはその到達できない存在との差異によって日々自身の存在の至らなさを意識するのである。

 

 

 

 

 

スケッチ

この2ヶ月は黙々とコードを書いていた。

今やっていることは少なくとも自分が企画して作るようなアプリではない、引き受けてしまった仕事だ。しかし、開発経験を積むのに今の職場では得られない価値があるはずだと思いたい。そして願わくばその余力で自身のアプリを開発したい。

その合間に勉強会に参加した。昨年に比べて勉強の速度が落ちているのは開発にほとんどの時間を取られているからだと思う。全く時間がとれなくて共形場理論を口頭で説明したが、意外に何かを参照としないことで概要が伝わりやすくなったような気がしている。

喫茶店でいつものように休憩しているときにふとノートにスケッチをするように数式を書き込みはじめてみる。すると、何をしたいのか何について考えているのかということが突然明確にわかってくるように感じた。何度も何度も原点に戻って第1原理を考える。今まで耳にしたことや目にしたことが関連していることに気づく。一刻も早く家に帰って本を調べて確認したいが自分にはそのような時間は取れない。感じることと考える事が一体となって時間が消えるような状態を久しぶりに味わう。ほんのわずかな休憩でも研究とも勉強ともいえないこの時間が自分にとっての自分だけの時間なんだと思う。

 

 

 

 

 

 

消費税8%の日

 


栄養バランス考えないとと思ってなぜかすき家にいるのか。いや、昨夜のラーメンよりは良いのだ。

 


消費税対応で大混乱の店内、どうもレジが不能になっているようだ。つぎつぎと客がくる、弁当の注文をさばく。
めまぐるしく応対する店員さん達。せめて水は出してほしかった。

 

3
新しく入ってきた同僚が「うんこうんこ」言っている。確実に僕より年上なので素敵な年の取り方だと思っている。

 

4
消費税が初めて導入された日に小学生だった僕はランドセルをしょったままおもちゃ屋に入ろうとしてインタビューを受けた。
元気よく「良いと思います!」と答えた。放送はされなかっただろう。

 

5
そういえばおもちゃ屋の前で何度か友人とキャッチボールの約束をした覚えがある。その友人は一度もその待ち合わせにこなかった。彼とはそもそも友人だったのか。今でもわからない。

 

 

IMG_0277

物と貨幣

なんとなくポエムっぽい文章をかいた

むかーしの人は実際に生きるために物をうばったり、とられたりとか、殴られたり、酷い時には殺人を犯してうばったりする状況があったとします。
これを仮に限界状況と呼ぶ事にします。そこでは、おもに食料などの物を奪うためにこん棒を使い、またそれを守るために楯で防ぐような攻防があるわけです。

ところが、それがある時点で、食料をうばうのに金銭によって解決するようになる。これは不思議です。
これって、こん棒によって殴り殴られるという「暴力」の交換が「貨幣」の交換に変化したのではないでしょうか。

しかし、貨幣というのものは同時に反転する役割を持っています。
金銭の奪いあいのための暴力を引き起こすという方向です。

ここでは、一見、暴力交換が貨幣交換によって平和が訪れるかにみえて、
貨幣の奪い合いによる暴力出現も同時起こってしまう2面性があるようにみえます。

さて、そこから考えつくのは次の段階でしょう、
貨幣の奪い合いを貨幣によって行う段階です。
ここには暴力に関連する「生」は見られません。もはやその意味での「生」は隠されています。
貨幣は物である必要もないので、これは一つの生命体のようなものです。
ここで、人間は貨幣をやりとりするための導管となり、
その導管がつながることで金銭が導管をつたって流れるようになります。
人間はインフラの役割を背負うのです。そこでは貨幣が「人」です。
つまり、見方によって人間-貨幣の双対関係がみられるようになります。

さて、時代がすぎていくと、人間から機械が生まれます。そして機械から情報世界が産み落とされます。
貨幣はこの情報世界の中を蠢くことになります。

物理的な存在としての貨幣は限りなく質量がゼロに近くなり、光速度で地球を旋回していく。
この貨幣のやり取りはもはや人間すら介在しないやりとりとなる。

この世界において人間は何をすれば良いか、というと、そこにもきちんと道が用意されていて、
無数の情報上の人間を利用して情報的なお金を奪い合ったり、情報的な物を奪い合う事で、
一段階抽象化された「社会」を生きることになる。
そこには生も死も当然情報上のことであって、繰り返しも、コピーも、リセットも可能である。
ただ、そのシステムの外側にだけはいく事ができない。
そのシステムの外側には機械の層があり、その外側には暴力の層があるから。

私たちのゲームは、ここではシステムの雑音のようなもので
システムももはや役割をもたないので、この雑音を払いのけもしない
完成してしまったシステムは地球が外部から破壊されない限りエコシステムとして機能し続けてしまう。

リアルさといったものはそこではそもそも何がリアルであったかもわからない。
スイッチが入ると人の目がさめ、その人の頭が伸びていき巨大な赤ん坊の手のひらに吸い込まれる。
その隙間をキラキラした丸い硬貨が日の光を受けながら風に乗って運ばれていく。この硬貨がこの世界の人間である。

土曜日

88円のきゅうりを買おうと思ったが、さっきの駅前のスーパーで68円のきゅうりを素通りしてしまっていたので、悔しくて買えない。そんな一日を過ごした。

 

クリニックの扉は閉まっていて、何度確認しても今日は土曜日だし、電話はつながらない。1Fのラーメン屋のにぎやかな声が、壁越しに微かに響いてくる。

 

喫茶店を2件はしごして、カントにおける生命概念の章を読んでいたが、どうにも退屈で、作者が何を言いたいのかよくわからない。なぜ、自分はこんなにも生命に興味を持てないのだろうと思ったが、よく考えるとあの津波の後の原発問題にもまったく興味がもてないことを思い出した。

 

地震がきたら、せめて風呂に入っていないときにしてほしい。僕は戦争で徴兵される年ではないだろう。もちろん甲状腺にたまって死ぬ事より、環境で犯される余命のほうが怖いと思って、そう思った途端、それも嘘だと思った。

 

アンチノミーというのは面白いけど、カントってニーチェの裏返しにみえる。もちろん時間的に裏返っちゃってるけど。認知症でなくなったのなら、馬に抱きついてるのと同じだよね。だから時計の音がならないかいつも確認しているのだ。

 

 

IMG_0023

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神とかそういう話

本日も晴天也。起きたのは夜だが。

 

真っ暗な世界、それだけがその人のすべてだったら。今のような気持ちになるんだろうか。

 

隔離児という監禁された状況で育った子供達がいる。

19世紀のドイツのカスパー・ハウザーは発見されたときは16歳で言葉すら話す事ができなかったらしい。暗闇の中で最低限の世話をする男の手だけが唯一の人とのつながりで、それが彼にとっての楽しみだった。

そんな彼が保護され、光の中で外の世界を見た。その時、彼は初めて自分がどのような状況におかれていたのかに気づいた。あの温もりが自分を監禁した者のそれであった。

自分は今までの人生がただ奪われていたことを自覚した。そして彼は衰弱していく。そして、ようやく言葉を話せるようになった時、彼は口封じに殺された。

 

キリスト教

キリスト教の人は旧約聖書も信じていると思うのだが、天地創造からはじまる一連の事を今でも信じているということなのだろうか?それともあれは一連の何かのたとえ話として理解しているのだろうか。

他にも堕天使という概念がよくわからない。天使というのは神を自ら賞賛するための自由意志を授けられているという。で、天使の一部が人間の女性を見て美しいと思い関係を持つ。そして一連の知識を与える。神は怒り天使は堕天する。人間との間には巨人が生まれる。この巨人は背が1000m以上もあったらしい。(堕天使の話はエノク書等の偽典の方にかいてあるようだ。)

この話は知恵の実を食べたことで追放されるアダムとイブの話を繰り返しているようにもみえる。この時、追放されたのは人間だが、今回は天使だ。知恵の実の話では、蛇は罰せられていないのだったろうか。

神と自由意志の問題ははじめから矛盾しているようにもみえる。矛と楯の話のように、すべてを決めている神がいるなら、当然、自由な意志というものもすべて決まってしまっているのではないかという事になり、それは矛盾しているということになる。同じ議論は、神が完全なら、なぜ世の中には悪があるのかという話も近い。

 

ニュートン力学では世界は決定的であり、因果的でもある。神の一撃が世界の始まりか終わり(もしくはその間のどれか)を決定したのなら、ニュートン力学の決める因果律によって物質の世界は完全に決まってしまう。仮に、精神というものがすべてこの物質の世界の現象に過ぎないとするなら、この世界は完全に神の調和のもとにある。ここに人間の自由意志はないようにみえる。

ところで、この決定的であることと、因果的であることは異なるものだと自分は思っている。

つまり、因果的でない決定的世界はある。それは、どの瞬間にも世界は決まっている(1万年後であろうが)が、それは他のどの時刻にも因果関係がないような世界のことである。

 

以上の話は、一つのニュートン的な時間の話だが、相対論や量子論を加味すればもっと違う話となるし、そもそも、この議論には最大の問題である未来、今、過去とは何を意味するかが抜けている。

 

相対論的に一つまず考えられるのは、時間という概念は相対的になっているので、むしろ固有時という概念が重要であることである。しかし、これに加えさらに不思議なの事がある。それは我々が「いま、ここ」というとき、何が「いま、ここ」なのかということである。人間は決して点ではなく、大きさを持つ物質から構成されているので、そのうちの何かを特定する事は不可能である。強いていうなら、私はある時空の領域にいるということを主張することになるが、それは単に人間は物質を素材としてできている一種の現象であるから、当たり前と言えば当たり前である。当たり前にならないのは、自我を考えたときのみであろうと思っている。そして、「いま、ここ」という視点はまさに自我の問題であると思われる。

 

考える

ちゃんと考えると、3時間くらいの時間はすぐ過ぎてしまう。そういう事をしていると人生経験がますます少なくなっていってしまうのではと最近考えている。何を言っているのかというと、例えば、人里離れて修行している人物がいたとして、彼(彼女)は何か真理をつかむ前に、人間の機能が失われてしまうのではないかということである。まるで隔離児のように。

大人になってからそのような環境になっても、元々話したりできるなら大丈夫と言えるかもしれないが、実際、ベトナムではベトナム戦争で家族を失って悲観してジャングルで孤独な生活を送っていた親子が40年振りに保護された際に、言葉を話す事がほとんどできなくなっていた。(産經新聞)

 

考えるということが、仮に言語を用いる事を主とするならば、その行為の基本には対話が常に必要とされているのかもしれない。もし、山奥で正気を保ちつつ真理に至れる人がいるなら、その人は常に対話を続けていたのではないだろうか。自身か、友か、もしくは神との?

 

 

 IMG_0073

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひも

量子力学輪講会で場の量子論の枠組みを少し説明しようと思った。

最初にやろうと思ったのはそれとは無関係に超準解析による量子力学の議論で理論構成がどれだけ簡単になるかを見ようというものだったが、数学基礎論のどつぼにはまって数日を費やしてしまった。そこでもっと基本的な部分の基礎からやろうと、昔の卒論での疑問にそいつつ相対論的場の量子理論について少し調べたりしていた。

量子力学と場の量子論の間には越えがたい壁があり、その間は神話や歴史で覆い隠されている。他のみんなはその先の話をしたいのでそこの部分についてはうまく自分を納得させる形ですませるているか、数学の厳密のドツボにはまってそこから出られないかのどちらかといった感じである。自分はどちらも中途半端で、とにかく基礎がわからないわからないと言って先にすすめなかった。超ひも理論を研究するようになって。実はそのあたりのわからなさは超ひものわからなさにつながるようになった。そこをさけてうまく論文を書いていく華麗なことも、じっくり厳密に数理物理を解いていく方法も自分にはできなかったので、これはわからない。これが議論されてない。ということをただワーワー言って、自分はずっと論文にもならない1次元の場の量子論と称したものを勝手に計算していた。

あの頃、放置しつつもたまに議論してくれた指導教官は、「君はもう少し何かが足りなくて、おしい。」「基礎の方に関心があるようだ」ということをおっしゃっていて、それは今では非常に貴重な意見だったと思う。確率過程やtwistor emebedなどの怪しげな理論を見せにくる学生を馬鹿にせず話をよく聞いてくれたものだ。

社会人になって、なぜか勉強する時間が大量に増えた(寂しい人生)なのでこれまでにないほど色々な勉強会に顔をだし、数学や物理を広く勉強したり、哲学や美学の人と議論をする機会を得た。

自分は基本的に、常々奇手だけをぶちあげていきたいと思っているタイプである。総合的な知識が絡み合って、別の次元の知になることを恐れない。正当な研究はプロに任せておけばよく、我々は違う武器で違う荒野を切り開く、これが在野の使命だろう。

プログラム

プログラムを書いていた。

プログラムは、コンピュータが理解するようでいて、実は人間が読むためにある。

コンピュータはプログラムから変換されたものを理解しないで実行する。

理解は人間の側にあるし、人間がより読めるように進化している。

 

プログラムというのは非常に簡単で、単に、あれをしろ、これをしろという事が文章で書かれているだけである。

日常言語より簡単なので誰にでも理解できる。苦手意識やプライドがじゃましない限り。

 

しかし、あれをしろという手続きを延々と書いていくはめになるので簡単に内容が複雑化する。

もっと高い次元で、それらをまとめる考え方を作っていくというのは、まさに人間らしい頭の使い方だと思う。

そういうわけで、より高い表現力をもった書き方としてオブジェクト指向という考え方がある。

 

簡単に説明すると、あれをしろ、というのはそれをする何かがいるということで、それをオブジェクトという。

オブジェクトは、何ができるか決まっていて、大体一つの役割(債務)を担当するのが理想である。

プログラムはオブジェクトを作ったりオブジェクト間の関係を定義したりして、これらに作業を依頼し、オブジェクトは

共同でそれをこなす。ここで、少しだけ、集団をまとめる組織論と話が似てくる。

 

オブジェクト指向にはデザインパターンという定型の戦略がまとめられており、複雑に書かれているものもあるが実際は

とても簡単で、興味深い戦略がいくつも書かれている。これは日常で普段私たちが行っている作業ととてもよく似ている。

 

以下は単に素人意見だが、自分はオブジェクト指向は数学の表現力の増したもののように感じている。数学がダイナミズムをもつと恐らくこのような形をとらざるを得なくなる。つまり、数学はオブジェクト指向のある部分集合になっているはずだ。

そして、実はこれが重要で、表現力が落ちる分、信頼性や予言能力は数学の方がはるかに高いのだ。これは、戦術として、プログラミングの際にいかに数学を構造として取り出してくるかが、コードの透明性や拡張性に関わってくるのではないかということだ。もちろん、ここでいう数学とは微積分とか数の足し算とか、そういう矮小なことをいっているつもりはない。しかし、逆にプログラムで微分演算が成り立つ部分があれば、それは非常に興味深いコードになると思われることも確かである。僕がここで使えそうといっているのはもっと原始的なものである。

green