かなしみのないせかい

かなしみのない世界は幸せでしょうか。

永遠に生きるということは、無根拠であることとかなり似ています。

なぜ、今、私はここで生きているのか?という問いすら、そこでは成り立ちません。

 

 

瞬間という概念を初期に考えたのはプラトンあたりの人らしいです。瞬間と永遠。これは私たちの世界にはありません。

これらは私たちの世界の外側にあるとすると、永遠という概念を、昔の人は神に、瞬間を物理学として発展させてきた古代から近代の人たちの発想はかなり自然なものである気がしています。

 

例えば、実数を何かの集合で表すということは、本当に「この世界」を捉えているのでしょうか。それはこの世界の外側から、この世界を規定するような物の見方であったりはしないでしょうか。

 

世界の外側は、この世界からは常にそういったぼやけた情報の少ない何かでしかありません。瞬間にも、永遠にも、外側では、もっと深い意味と構造が隠されていたとしても、それが我々と関係していないからこそ、瞬間とか、永遠という言葉で理解したつもりになれるのかもしれません。

 

そして、瞬間と永遠が双対な概念であるとすれば、それは反転する可能性を常に秘めています。例えば、素粒子論で語られる弦理論のT双対性は、丸まった空間の半径がその半径分の一のサイズの理論と同等であることを示しています。仮に、この半径を無限大にもっていけば、そして、この双対が時間方向で成立していたとしたら?

 

さて、かなしみと幸せが双対であったとしたら。幸せしかない世界とは、それはかなしみの世界のことです。

そして、瞬間が永遠であるとすれば、私たちはやはり無根拠です。

 

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