素朴に圏論(2) モノとエピ

圏論の復習がてらに。

前回は圏は数学の基本的になりそうなのでそれをやってみたいということを書いた。
とりあえず矢印を使って概念を抽象化したときに関係を探る学問であるという程度の理解で進めようと思う。

前回の復習:

とりあえず
もの --- 対象
矢印 --- 射

矢印には前回述べたようなくっついて長い矢印になるとか幾つか規則がある。

この関係全体を圏と呼ぶ。

対象をA,B,C,...と書いて、
射をf,g,h,...と書く。

射(矢印)は対象からでて他の対象へとむかう。これを

f:A -> B

と書く。

射の合成は

g:B->C

なら

f;g

と書く。

つまり、

f;g: A -> C

という射になる。対象から対象への射は一本でなくて良い。

h:A -> B

というのがあってもよい。なので、A -> B の射たちをまとめて 圏(A,B)と書く。

対象は自分から自分への射があってもよく

j: A-> A

とくに、恒等射と呼ばれる合成しても意味のない射を必ずもたないといけない(しかも全部の対象に)。

つまり、圏(A,A)という射の集まりには必ず恒等射が含まれる。

復習ここまで

圏の例を幾つか具体的にあげられればと思ったので考えてみる。

Aさん、Bさんがいる。誰かが誰かを思う行為を考えてみる。

Aさんが思うBさん
Bさんが思うAさん

これを

f: A -> B
g: B -> A

と書く事にする。すると

Aさんが思うBさんが思うAさん

f;g A -> A

のような射の合成が作れる。

Aさんが思うBさんが思うAさんが思うBさん

f;g;f A -> B

が作れる。圏としては

(f;g);f = f;(g;f)

が成立してほしいので

Aさんが思うBさんが思うAさん、が思うBさん

Aさんが思う、(Bさんが思うAさんが思うBさん)

は一致している状況。。。うん、意味がわからん。

やめます。

もう少し他の例を考える。

ちなみに矢印(射)の先端をcod、根っこをdomと読んだりする。

つまり

f: A->B
なら、domがAでcodがBである。これをdom(f)=Aとか書いたりする。

なにか例はないか。

3つの事件があるとする。これらの事件は原因と結果で関係している。
事件を

朝寝坊事件
定期忘却事件
遅刻事件
減給事件

としてみる。
4つだった。4つの事件があるとする。

これらは次のような因果の射達で書けるのではないだろうか。

朝寝坊事件 -> 遅刻事件
定期忘却事件 -> 遅刻事件

遅刻事件 -> 減給事件

射の合成は
朝寝坊事件 -> 遅刻事件 -> 減給事件
というような一本の線もやはり先端の結果、根っこの原因となっているので大丈夫そう。

恒等射は
朝寝坊事件 -> 朝寝坊事件 という無理矢理な関係をかいて、これを朝寝坊したのは朝寝坊したからだと思えば成り立ちそうな気がする。

実際、
朝寝坊事件 -> 朝寝坊事件 -> 遅刻事件

とつなげてみると、朝寝坊したのは朝寝坊したからであって、そのせいで遅刻したということであって、それは結局朝寝坊したから遅刻したということの言い換えで、

朝寝坊事件 -> 遅刻事件

ということだし、

朝寝坊事件 -> 遅刻事件 -> 遅刻事件

朝寝坊したから遅刻したのであって、結局、遅刻したから遅刻したのだと思えば、それは朝寝坊したから遅刻したということを言い換えてるだけなので
やはり、

朝寝坊事件 -> 遅刻事件

を指している。恒等射も良さそう。というわけでこれは圏になっている。

遅刻圏と呼びたい。

遅刻圏は対象と対象の間に射が1本ずつしかない。これはやせていると表現する。
やせてない圏を作るにはどうすれば良いか。

射にかかる時間でもいれたら良いのではないだろうか。

f5 朝寝坊事件 -> 遅刻事件

というのは寝坊して5分後、遅刻事件となった。ということを意味するとする。

同様に

f10 朝寝坊事件 -> 遅刻事件

は寝坊して10分後、遅刻事件となることを意味するとする。

こうやって何分後という射を無数に増やせる。ただし、

f0 朝寝坊事件 -> 朝寝坊事件

は、朝寝坊事件の直後は朝寝坊事件であったとすると、

f1 朝寝坊事件 -> 朝寝坊事件

は、朝寝坊事件の1分後も朝寝坊事件であったということで

f1;f1;f1;f1;f1;f1;f1;f1

は朝寝坊事件の8分後も朝寝坊事件のままでるということ

f8 = f1;f1;f1;f1;f1;f1;f1;f1

をいみすることになるのではなかろうか。時間入り遅刻圏?

ますますわかりにくくなった気がする。

やはり、射を行為だとおもって、

Aを行為によってBにする。というのがわかりやすいのかもしれない。

Aを他の行為によってBにすることもできて、

Aを何もしない行為によってAのままにすることもできる(恒等射)

二つの連続する行為から一つの行為をつなげることもできる。

これは行為に関する圏なので行為圏とでも呼べそうである。

具体例がなかなか思いつかなかったがもっと他に例があれば書いてみたい。

さて、タイトルにもどるが、そういった圏があって、その射にある特徴があるとそれをエピとかモノとかよんだりする射になる。

エピというのは、圏(A,B)の射達g,h,..が入り口をエピの射fで塞いでしまうと
f;g = f;h なら g = h になってしまうようなものになっている。

つまり、エピ射は入り口を塞ぐ事でそれが同一になってしまうなら元から同一であるということを判断できるような射である。

同様にモノは出口を塞ぐ事で圏(A,B)の射達がそれで同一になってしまうなら元から同一であるということを判断できる射である。

これもなにか具体的なものが思い浮かべば理解できるような気もする。

例えば恒等射はエピじゃないだろうか、此の場合モノでもあるが。

もう少し地面を這うように具体例と圏の素朴な定義を続ける。

素朴に圏論(1)

圏について漠然と復習してみようと思った。不定期連載的に。

圏とは集合論と並ぶ数学の基本的な言葉である。なぜ数学の基本となる言葉になりうるかというと集合論はものの集まりについての抽象化したものだとして、圏は関係についての抽象化とも見えるからだと思う。

集合論 -- ものの集まりの抽象化
圏論 -- ものの関係(操作)?

このとき、集合論は、集まりとはなにかを第1に考え続けるのですが、圏は関係を第1に考えるようにみえる。

圏は、対象と射からできている。対象の集まりを[対象]、射の集まりを[射]と書く事にする。

圏 -- [対象]と[射]

対象をA,B,Cと書く事にする。

対象 -- A,B,C,..

射は対象から対象へと何本も伸びて良い。ある対象Aから対象Bへと伸びている射達を

圏(A,B)

と書く事にする。これは射の集まりである。射の一つ一つはf,g,h等と書く事にする。AからBへ伸びているので矢印で

f:A -> B

みたいに書く。fは圏(A,B)に含まれているので

f ∈ 圏(A,B)

と書く事にする。

射は合成できる。

f: A -> B
g: B -> C

として、新たな射h:A->Cを

h = f;g

(もしくはh=g○f)

と書く事にする。

さらに、射は三つ並べた時に結合できないとならない。

(f;g);k = f;(g;k)

これは何かを圏だと思うのにかなり強い制限になってしまうと思う。結合できるので上記括弧はいらない。

こういったf;g;h;j;k....といった矢印のパスを道と呼ぶ。

最後に、対象はかならず自身から自身へ恒等射を持つ。これを対象Aの恒等射をidAとすると

idA:A->A

は射f:A->B ∈ 圏(A,B)

に対して

idA;f = f;idB

となるものである。

丁寧に書こうと思うときりがないことに気づくが次回はepiとmono。
目標としてはなるべくプログラミング言語に近い形で記号を改良しつつ書ければ。

εδ

 

問題と考察という感じで記事を書いていくと書きやすいかなと感じたのでそんな風に書いていこうかなと思う。

問題 2014.06.09.1

εδ論法で関数値の収束を議論したい。これを述語論理で記述し、形式的操作で議論をし、なおかつ簡明な記述を行うことは可能か。

 

数学でεδ論法というのがある。大学一年くらいにならってすっかり忘れていたが、これを述語論理に従って形式的に計算するにはどうすれば良いのだろうかと、先日の輪講会でやったことを漠然と思っていた。

これを位相の議論の簡単化につなげられないかということを考えた。

問題2014.06.09.1-1

開集合と閉集合の議論を述語論理で形式化し、どちらを定義として出発しても議論が等価であることを形式的にかつ簡明な形で議論可能か。

 

すぐにはわからないというより、述語論理の計算に慣れてなくてすぐに応えられなかった。

で、それが超準解析の議論でどうなるのかをみてみたい。

問題2014.06.09.1-2

以上の議論を超準解析で議論可能か

わかったら回答案とか考察とかページを改めて書いたり書かなかったり。。

図式とかヒュームとか

数学、情報、哲学の初歩をいったりきたりしている。

 

圏論の図式

圏論の勉強会で色々と初歩的な質問をさせてもらった結果、図式のイメージが自分の中ではっきりしてきた気がする。図式はもともとは、圏の積のような特徴を普遍性から定義しようとすればごく自然にでてくるような概念だと思う。

圏の積なら任意の2対象をとってきたときに、そいつらへ射を延ばすようなやつらの中で必ず経由しくてはならないものが積であり、このやつらの中の間の対応を取り出すさいに、やつらってのは2点へ射をのばすようなやつってことと定義したいので、この2点を指すのに二つの対象を持つ離散圏からの関手を定義し、3点(やつらから一つとって、あとこの2点)でコーンというのを作って、そのコーン達(当然やつらの分だけある)同士の関係の圏を考え、そいつにターミナルがあれば、それが元の圏の極限であって、今は2点に対する積だよと考える。

で、今の離散圏を型と呼んで、この型と元の圏への関手を図式と呼ぶというような感じらしい。なんか極限の意味がすんなりわかった感じ。

この視点は驚きで少し世界がひろがった気がする。随伴も同じように理解したい。

集合論もそれ自身大変に自然や社会と密接なものだが、圏と関手いう特殊な関係性はさらに違う視点をもたらしてくれるようだ。

 

ヒュームの有機体論

放送大学の通信課題をやるために教科書の「哲学における生命概念」(佐藤康邦)を読んでいる。今日読んだのはヒュームの懐疑論に有機体論、生命についての思考が深く関与しているというくだり。以下はまとめてみたメモなので勘違い、誤読が多々あります。

18世紀のスコットランド倫理学は従来の倫理と異なり理性よりも感情を重視する点に特徴があり(フランシス・ハチスンやアダム・スミス)、それを倫理を越えて哲学一般の思考へと展開したのがヒュームであり、そこでは「理性は感情の奴隷である」と言及された。

ヒュームの懐疑論では因果、時空や物質、心身の同一性といった観念は単純印象とそれに対応する単純観念が想像力によって結合してできるものであるとされる(このあたりがまだよくわからない。単純観念と観念は後者が複雑なもの?)

例えば因果という観念は機械論には必要な観念であるが、これはヒュームによれば時間的に前の事象と後の事象が、「近くで」「続いて起こり」「必然的に」という要素で結合されることによって起こり、この必然性は起こっていることをたびたび目撃する人間の側に起こる信念(belief)であることから、因果というものが実際には人間の側の想像力が作り上げたものであるということらしい。

 

また、心というものは絶えず変化し続けるのに、なぜ私は自分の心が一つであると確心するのかという問題に対し、ヒュームはこれが有機体においても同様の問題があることを指摘する。有機体においてもそれを構成するものは絶えず入れ替わるので。このような視点はロックがすでに論じていたがヒュームにおいて異なるのはそれが目的論的に説明されることである。

 

例えば次のような説明である。船は個々の部品が入れ替わるが、船には共通の目的(海に浮かべて物を運ぶとかの)がある。個々の部品とこの目的を結びつけるのは「共感」である。誰の共感かというと我々の共感である。(つまりそれを我々がそれが船だと思っているからそれらの部品はその船の一部と思えるということか)

要するに、ヒュームにとって懐疑論と有機体論と目的論は密接に結びついている。これらの議論が世界の創造目的へ至る議論が「自然宗教に関する対話」(1779)である。

 

この論は三者(クレアンテス、デメア、フィロ)の対話からなる。世界は神が作った建築物であり、それは人が機械をつくるようなものと対応し、人が目的を持って機械をつくるように、神は目的を持って世界を作り、その証拠に自然に無駄がない(economy of final causes)というクレアンテスの神人同一説とそれに対して、神は完全で永遠なものであり人間とは根本的な隔絶があるとするデメアの説に対し、ヒュームの主張と思われるフィロの主張はそれ(自然に無駄がないといったもの)では神の目的を示せているとは思えないというものである。

フィロは、そもそも人間にだって目的(因)といったものを持っている事は示せるのかと問う。どこを見てみもそこには作用(因)しか見当たらない。ましてや神の目的等を知れるという説明にはなっていないことを主張する。

 

これは自然神学的な発想の否定であるが、ヒュームは物質的世界そのものに目的の内在を見いだす。物質的世界は秩序を持っているが、その秩序を自分自身が持っている。そしてこの事を想定するということが、それが神であることを想定しているということを主張しているのである。そして物質的世界にいるその自分自身として秩序をもつものとして生物(有機体)をとりあげるのである。

 

そしてヒュームは宇宙そのものと生物との類似性を考える。宇宙の絶えることのない循環、消耗と補充といったものは生物における自身の保存と対応する。つまり、宇宙には極めて濃密な「共感」があるとするのである。このようにして生物と宇宙、魂と神といった対応をみていくような、これは機械論のような外部から目的が与えられるものとは異なる、目的の内在するような物質観をヒュームは持っていた。

 

このような目的論的な問題はカントとの「独断のまどろみ」とはまた別の対立軸となっている(らしい)

 

IMG_0673

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

論理ABC

論理学という言葉を聞いた事があるでしょうか。

 

「カラスは鳥である、鳥は羽を持つ、よってカラスは羽を持つ」

みたいなものでこれは三段論法と呼びます。これは(古典)論理の一種でとても簡単ですが、ややこしい文章を整理するのに役立つ事もあります。そして、実際に役立つばかりでなく、非常に深い奥行きを持っています。

これは分解すると、三つの文章に分かれます。

 

 

「カラスは鳥である」

「鳥は羽を持つ」

「よってカラスは羽を持つ」

 

このうち

「カラスは鳥である」

「鳥は羽を持つ」

は前提で、

 

「よってカラスは羽を持つ」

 

は前提から導かれた結論です。

 

なので、これを

 

「カラスは鳥である」

「鳥は羽を持つ」

「カラスは羽を持つ」

 

という三つの文章が組み合わさって

 

もし

「カラスは鳥である」

かつ

「鳥は羽を持つ」

ならば

「カラスは羽を持つ」

 

のように表す事ができます。 このような文章(主張)の一つ一つを「命題」と呼びます。わかりにくい呼び方ですね。このような命題に関する論理のことを命題論理と呼びます。

 

命題はあってるかあってないかがわかるようなものなら何でも良いので

 

もしAかつBならばCである

 

のように文字で省略すると、その構造がわかりやくなります。さらに、記号を導入して

 

A ∧ B → C

 

にように書くことができます。「∧」や「→」は論理記号とよばれ、「かつ」や「ならば」を省略して書いてると思ってみても良いと思います。論理記号は他に、「または」、「でない」があります。

 

「かつ」 ∧

「または」 ∨

「ならば」 →

「でない(否定)」 ¬

 

ここで、とても注意すべき点があります。論理学では「AまたはB」と言ったとき、「AかBのどちらか一方である」という意味ではなく「AかBの少なくともどちらかである」という意味になります。

「お茶か珈琲下さい」と言った時、お茶と珈琲両方差し出すことはあまりない気がしますが、

「チョコかクッキー下さい」と言ったとき、チョコとクッキー両方差し出したら喜ばれますね。つまり、普通の言葉遣いでは文脈に依ってしまうようにみえます。なので、曖昧なく伝えるには「どちらか一方」等の言葉を付け加える必要があります。「AかBのどちらか一方」というのは排他的論理和と呼ばれます。

 

なぜ、論理学では、「または」という言葉が「少なくともどちらかである」という意味で使われるのでしょうか。これは、「かつ」と「または」をお互いがお互いをひっくり返したものとして扱いたいからだと思われます。例として

 

「犯人は男性であり、日本人である」

の否定である

「犯人は男性であり、日本人である、ということはない」

「犯人は男性でない、または日本人でない」

という言葉と等価であるようにしたいのです。これは記号で書くと

「犯人は男性」∧「犯人は日本人」

の否定

¬(「犯人は男性」∧「犯人は日本人」)

¬「犯人は男性」∨¬「犯人は日本人」

 

となります(これが「犯人は男性でない、または日本人でない」であることを確認してみてください^^)。括弧は「ということは」程度の意味です。このような否定を通した「かつ」と「または」のお互いにひっくり返った関係を「双対性」と呼びます。

 

さて、この「かつ」「または」というのはそれぞれ「論理積」「論理和」と呼ばれる事があります。なぜ積や和と呼ばれるのかと言いますと、

 

「AかつBかつCかつD」

 

は、A,B,C,Dのどれか一つでもダメなら全部だめになります。これは、Aであったら1、Aでなかったら0などの数字をあてはめると

A×B×C×D

の値が1であるか0であるかということに対応していることがわかります。

 

そして、

「AまたがBまたCまたはD」

 

は、A,B,C,Dのどれか一つでもOKなら良いのでこれも、

A+B+C+D

の値が1であるか0であるかということに対応しています。このように、0か1かという値を当てはめる事で(古典)論理を計算することができ、これをブール代数と呼びます。

 

Aであるという主張(命題)と実際にAであった(数字として1)ということは異なる事に注意してください。1か0を割り当てるというのはその主張の真偽を吟味しているわけで、これを「意味」という呼び方をします。今の場合0,1という二つの値を割り振るので2値の「意味論」と言います。

0か1というのはスイッチのオンとオフと対応させることもできるわけで、これはコンピュータの計算に使える事がわかると思います。

 

長くなってしまったので、続きは後ほど(続くのか?)

 

 IMG_0594

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボグダノフ

 

ボグダノフ事件という事件があります。これは、フランスの科学テレビ番組の司会者だったボグダノフ兄弟が大学院で博士号を10年かけてとった際に、ほぼ内容的にはデタラメと思われる専門用語のサラダのような論文を物理の複数の雑誌に送ったのですが、その幾つかで採用され、掲載されたというものです。これは、物理の論文の査読審査が機能していない事が暴かれてしまった事を示しており、思想の分野でもっと意図的に行われたソーカル事件と同様の意味を持つ事件です。

 

しかし、今ではほぼ否定されているとはいえ、ボグダノフの論文には、なんらかの価値があったのではないか、というのが僕の直感です。一つは、ほぼ誰も理論を提出できないような領域である、宇宙の初まりの特異点を、時空の真空凝縮の視点という発想で切り込んでいるようにみえること。もう一つはよく知られた理論的な言明を他の(より複雑な)表現方法で記述していることの二点です。もちろん論理的に破綻している内容だとしてです。

まず、それが従来知られていない事や注目されていないことに何かのアイデアを持って切り込んで行くというのは正しい行為であるし、そこではあらゆることを試してみるべきで、時にはおかしな発想とおもわれることも試されて良いと思われます。また、一つのトリビアルな表現を異なるより特殊な表現方法で語るというのは表現方法の豊穣、道具を増やすことにつながることで歓迎すべきです。

論理的破綻の部分ですが、これは論文の審査においてきちんと破綻部分を指摘すべきだったのは当然です。しかし、もしこの論文が審査を通らなかったとしても、一つの詩の形をとった形体としての可能性は残されていると思います。

Arxiv(もしくはviXra)への掲載、なんらかの雑誌が破綻部分を修正させるか削除、もしくは論理的破綻をコメント付きで承諾して載せるというのが良かったのではないかと思います。

 

ちなみにArxivというのは作者が論文を出す直前に全員に回覧するために投稿するプレプリント(ないし論文そのもの)を集めたサイトであり、理数系の論文はほぼこのArxivに投稿されています。Arxivは分野が違う等の最低限のテェック以外の審査はありません。viXraはその最低限の審査さえ嫌う人たちが完全投稿自由な論文サービスを目的に作ったサイトです。

Arxiv http://arxiv.org/

viXra http://vixra.org/

 

ソーカル事件で批判された現代思想も、ボグダノフ論文も、数学的、理学的間違いを訂正、補完した上でまだ何か有用なことを示しているのかということは興味のあることです。その際は、テキストをもっと正しく言い換えて言っても良いのではないか、とも思います。

 

そして、最後にアナロジーの視点です。アナロジーのための数学、アナロジーのための物理学。こういった視点は従来、あやしげな与太話程度にしかみられていなかったことは確かです。しかし、複雑でより曖昧な問題を切り分ける道具としてのアナロジーはある程度、許されるのではないかと条件付きで思います。理学用語の適切なアナロジーの取り扱い方法を理学側が提示すると良いのではないかとも思いますが、恐らく両方の知識を持つ人がほぼいないため、不可能でしょう。違いますね、両方の知識を持っているだけの人は一杯います。

 

 

 

IMG_0059

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かなしみのないせかい

かなしみのない世界は幸せでしょうか。

永遠に生きるということは、無根拠であることとかなり似ています。

なぜ、今、私はここで生きているのか?という問いすら、そこでは成り立ちません。

 

 

瞬間という概念を初期に考えたのはプラトンあたりの人らしいです。瞬間と永遠。これは私たちの世界にはありません。

これらは私たちの世界の外側にあるとすると、永遠という概念を、昔の人は神に、瞬間を物理学として発展させてきた古代から近代の人たちの発想はかなり自然なものである気がしています。

 

例えば、実数を何かの集合で表すということは、本当に「この世界」を捉えているのでしょうか。それはこの世界の外側から、この世界を規定するような物の見方であったりはしないでしょうか。

 

世界の外側は、この世界からは常にそういったぼやけた情報の少ない何かでしかありません。瞬間にも、永遠にも、外側では、もっと深い意味と構造が隠されていたとしても、それが我々と関係していないからこそ、瞬間とか、永遠という言葉で理解したつもりになれるのかもしれません。

 

そして、瞬間と永遠が双対な概念であるとすれば、それは反転する可能性を常に秘めています。例えば、素粒子論で語られる弦理論のT双対性は、丸まった空間の半径がその半径分の一のサイズの理論と同等であることを示しています。仮に、この半径を無限大にもっていけば、そして、この双対が時間方向で成立していたとしたら?

 

さて、かなしみと幸せが双対であったとしたら。幸せしかない世界とは、それはかなしみの世界のことです。

そして、瞬間が永遠であるとすれば、私たちはやはり無根拠です。

 

IMG_0593

 

 

 

 

 

 

 

 

圏論の雑感

朝8時くらいから夜まで自宅でプログラムのコードを書いていました。それから22時くらいにふらっと近くのバーのようなところでなぜか親子丼を食べて近くのファミレスへ行き、圏論についてスケッチをしていました。

 

圏論というのは数学の分野で、点と点をつなぐ矢印で構造を表すような分野です。これだけだと一見、なにが面白いのかわからないのですが、構造と構造の間の関係もまた構造間の矢印で書いたりすることで、異なる構造の間の関係等を探ることができるのです。

 

例えば、点をある状況として、その状況から違う状況へいたる何らかの行動があるとします。この行動を射と考える事ができます。結局は同じ状況にいたるけど行動としては異なる行動もありえます。こうして、様々な状況から状況への行動が網の目のようになったものが一つの圏です。

さて、ある状況(目的の状況)へいたる行動を考えます。もちろん、その目的の状況へいたる行動は幾つもあります。目的となる状況へ、圏にあるさまざまな状況からどのような行動をすればいたる事ができるのかということを考えます。つまり、色々な状況から目的の状況へいたる行動にはどんなものかを考え、その行動の間の関係を考えるということです。

実は、これは一つの状況から目的の状況へいたる行動達(いわばある状況からの攻略ルート)を一つの点と捉え、行動の間の関係(異なる状況からの攻略ルート間の関係)を射と捉えれば、これも圏となっています。そして、最初に考えた状況と行動の圏から行動と行動間の圏を考えるという操作を関手と呼びます。ここで考えた関手はHom関手と呼ばれる関手になっています。

少し不正確な言い方でしたが、身近なものでイメージを捉えることができることがわかると思います。

これが何の役に立つのか、というと、構造がみいだされるすべての状況で、物を理解するのに役に立つのではないでしょうか。恐らく、日常や労働の中にも圏は潜んでいると思われます。

 

IMG_0026