武装解除

放送大学の公共哲学の教科書で田中智彦氏の書いた「生命・身体と公共性」に印象深い内容が書いてあった。

 

そして倫理が法=権利に還元されるとき、言い換えれば、「生命倫理」の名のもとに行われる公共の議論が、技術的な可能性と安全性の他にはもたないとき、私たちは倫理それ自体を抹消して、しかもそれをあたかも倫理的なことであるかのようにみなしながら、「生政治」の前にいわば自らすすんで「武装解除」することになる。(「公共哲学」第9章  生命・身体と公共性 p150, 放送大学大学院教材)

 

自分が安楽死の議論で感じる説明しがたい気持ち悪さはおそらくここにあると思う。「生きること」が今後バイオテクノロジーにおいてさらに変化し、人工知能において「人間であること」すら変化していくとするなら、近代において行われ、現代につながる生政治は、さらにもう一段階違う方向に進むのではないだろうか。それはおそらく生権力ではない方向なのではないかと自分は感じている。生きることがより物質の側に近づいていくなら、人口がもはや人間である必要がないとするなら、権力はまた違う方向へ網の目を伸ばしていくのではないだろうか。

 

 

 

暇と退屈の倫理学

とりあえず今年最初の面白かった本、「暇と退屈の倫理学」。読んでみたい本が色々できた。

ハイデガーの発見した退屈の第2形式(気晴らしそのものが退屈を呼び込む)、これが不気味であって、退屈とは結局大衆社会であってもなくても直面せざるをえない問題のことのようだ。

しかし、では未開であるような循環型の社会では、彼らは退屈を感じることはないのだろうか。。恐らくこの本の筋だと彼らは単に第1形式(退屈させられている)を生きている、つまり動物に近いという結論になりそうな気がする。

ハイデガーは退屈の第2形式から逃れるためにはさらに退屈の第3形式(退屈であるという呼び声が聞こえる)へいき、そこで何事かを決断し身を投じるという行為を行う事ができ、それは人間の動物では行えない自由さであることを述べている。しかし、国分氏はこれに対しそのような行為こそが実は動物的である、なぜならそれは退屈の第3形式によって決意し身を投じることは第1形式への転換であって、それは悩むこともない目的のために他のことは目に入らなくなり、退屈させられるという主張を展開する。

人間は退屈とどのように向き合えば良いのか、本書に明確な解が提示されているとは言いがたいが消費社会(ブランドのような観念の無限な消費)を批判しつつもこれを浪費社会(浪費には限界があり満ち足りるような有限な消費)へのアップデートへと新しい生き方の模索している。そしてこれらの問題を読者に対して自ら考え取り組むように促している。

やはり最後に背表紙にもあるモリスのこの言葉が良い。即ち
「生きることはバラで飾らねばならない」

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虚無の構造

虚無について。(西部邁「虚無の構造」(中央文庫)より)

西部邁「虚無の構造」(中公文庫)を読んだ。以下は序章あたりを咀嚼してみたメモなので誤読している可能性あり。そのままの引用は面倒なのでやめた。

 

 

ニヒリズムっていうのは単純にいうと「この世界に意味はないし、人間に生きる意味も価値も本質的にはない」という気持ち(精神現象)のことで、19世紀後半に「現代」がニヒリズムの時代であることを指摘したのが ニーチェであるらしい。

ニヒリズムは彼の生きていた19世紀から20世紀へという時代の大きな流れで生じた特殊な気分であるというものではなく、人間が時間をある捉え方をするときに普遍的に陥ってしまうものである。

それはどのような捉え方かというと、時間というものが不可逆であって、現代というものが過去から連なった時間の最先端に位置するものであるという捉え方である。これは今の私たちには常識といって良い捉え方であり、そうであればこそ、全員がニヒリズムへ陥る契機を持っていることになる。

その典型例は自身の作り出す道具の価値に対し中立的であるという相対主義を持ち出すような典型的な「科学者」であるという。この指摘(オルテガの説?)は少し耳が痛かった。ちなみにこの本での科学とは、仮説からある主張(命題)を導出(演繹)し、その主張を実験で確認することによって認識されたとする営みのことで、すぐわかるように、認識されることが実在するとは限らない(し、そもそも理論負荷の問題もある)ので、実在についての疑念というのは払拭することはできない。

ただ、西部氏は科学がもたらす道具や技術の豊穣さの前にこれらの間のまったく関連性がないということはさすがに言えないという感覚らしく、科学の科学らしさというかパラダイムへ没入していく危うさを持っているのは、社会的側面の部分、例えば人文「科学」のほうであるとみている。

そして、相対主義というのは、真理といったものが各自の見方によってことなりうるという考え方にはニヒリズムが隠れているという。なぜなら、仮に真摯に自身と他者の異なる見方があるとするならばそこには必ず判断があり、そして判断がある以上、そこには優劣の基準を探すはめになる。すると、相対主義者は他者を拒絶(価値の否定、ニヒリズム)し自己だけを絶対視する「エゴイズム」ではないかというのである。しかし、他者を拒絶し孤立した自己の内には見いだすものなど結局は「虚無」であり、それを見たくがないために人は「自己」を祭り上げる。つまり自分が好きだ(良い)とおもったから好きだ(良い)という論理である。そしてそうして自分が決めたはずの「自己」の考え、行いも、よくみると結局は時代の範疇の中で皆おなじ考えをし、同じことを行っている。そうして人は大衆として振る舞うようになる。

人はこのような判断に対する葛藤から逃れ、この事自体を忘却してしまうが、忘却の後に残るのは不安という気分である。その不安が何にたいする不安であるかすら忘れられた不安である。

 

 

ニーチェはこのようなニヒリズムへの対応は消極的ニヒリズムであり、積極的 ニヒリズムと対比させ後者を推奨するが、積極的ニヒリズムはそもそも多くの人が実践し伝えられていくようなことを拒否している。西部はニヒリズムへのせめてもの対応策として、我々がニヒリズムに陥っていることをもしくは陥る可能性があることを前提としたうえで他者と話すこと(気遣い)、その意味で時代と自分を相対化し、時代が要請する気分を察知する事(歴史感覚)を提案している。そして現代はこの気遣いと歴史感覚が技術とヒューマニズム礼賛によって失われつつあるという見方をとる。

保守思想というものを知らず食わず嫌いをしていたのかもしれないが、ここまでの考え方はとてもよく理解できる。ただ、歴史感覚やヒューマニズムで何を切り捨てて何を持ってくるかで色々見解がことなってくるんだろうなという予感がしている。

 

その結果、我々は、「実在」について想うことを忘れ、「当為」について考えることを禁句とし、さらに「虚無」について語ることをやめたのである。(p32)

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図式とかヒュームとか

数学、情報、哲学の初歩をいったりきたりしている。

 

圏論の図式

圏論の勉強会で色々と初歩的な質問をさせてもらった結果、図式のイメージが自分の中ではっきりしてきた気がする。図式はもともとは、圏の積のような特徴を普遍性から定義しようとすればごく自然にでてくるような概念だと思う。

圏の積なら任意の2対象をとってきたときに、そいつらへ射を延ばすようなやつらの中で必ず経由しくてはならないものが積であり、このやつらの中の間の対応を取り出すさいに、やつらってのは2点へ射をのばすようなやつってことと定義したいので、この2点を指すのに二つの対象を持つ離散圏からの関手を定義し、3点(やつらから一つとって、あとこの2点)でコーンというのを作って、そのコーン達(当然やつらの分だけある)同士の関係の圏を考え、そいつにターミナルがあれば、それが元の圏の極限であって、今は2点に対する積だよと考える。

で、今の離散圏を型と呼んで、この型と元の圏への関手を図式と呼ぶというような感じらしい。なんか極限の意味がすんなりわかった感じ。

この視点は驚きで少し世界がひろがった気がする。随伴も同じように理解したい。

集合論もそれ自身大変に自然や社会と密接なものだが、圏と関手いう特殊な関係性はさらに違う視点をもたらしてくれるようだ。

 

ヒュームの有機体論

放送大学の通信課題をやるために教科書の「哲学における生命概念」(佐藤康邦)を読んでいる。今日読んだのはヒュームの懐疑論に有機体論、生命についての思考が深く関与しているというくだり。以下はまとめてみたメモなので勘違い、誤読が多々あります。

18世紀のスコットランド倫理学は従来の倫理と異なり理性よりも感情を重視する点に特徴があり(フランシス・ハチスンやアダム・スミス)、それを倫理を越えて哲学一般の思考へと展開したのがヒュームであり、そこでは「理性は感情の奴隷である」と言及された。

ヒュームの懐疑論では因果、時空や物質、心身の同一性といった観念は単純印象とそれに対応する単純観念が想像力によって結合してできるものであるとされる(このあたりがまだよくわからない。単純観念と観念は後者が複雑なもの?)

例えば因果という観念は機械論には必要な観念であるが、これはヒュームによれば時間的に前の事象と後の事象が、「近くで」「続いて起こり」「必然的に」という要素で結合されることによって起こり、この必然性は起こっていることをたびたび目撃する人間の側に起こる信念(belief)であることから、因果というものが実際には人間の側の想像力が作り上げたものであるということらしい。

 

また、心というものは絶えず変化し続けるのに、なぜ私は自分の心が一つであると確心するのかという問題に対し、ヒュームはこれが有機体においても同様の問題があることを指摘する。有機体においてもそれを構成するものは絶えず入れ替わるので。このような視点はロックがすでに論じていたがヒュームにおいて異なるのはそれが目的論的に説明されることである。

 

例えば次のような説明である。船は個々の部品が入れ替わるが、船には共通の目的(海に浮かべて物を運ぶとかの)がある。個々の部品とこの目的を結びつけるのは「共感」である。誰の共感かというと我々の共感である。(つまりそれを我々がそれが船だと思っているからそれらの部品はその船の一部と思えるということか)

要するに、ヒュームにとって懐疑論と有機体論と目的論は密接に結びついている。これらの議論が世界の創造目的へ至る議論が「自然宗教に関する対話」(1779)である。

 

この論は三者(クレアンテス、デメア、フィロ)の対話からなる。世界は神が作った建築物であり、それは人が機械をつくるようなものと対応し、人が目的を持って機械をつくるように、神は目的を持って世界を作り、その証拠に自然に無駄がない(economy of final causes)というクレアンテスの神人同一説とそれに対して、神は完全で永遠なものであり人間とは根本的な隔絶があるとするデメアの説に対し、ヒュームの主張と思われるフィロの主張はそれ(自然に無駄がないといったもの)では神の目的を示せているとは思えないというものである。

フィロは、そもそも人間にだって目的(因)といったものを持っている事は示せるのかと問う。どこを見てみもそこには作用(因)しか見当たらない。ましてや神の目的等を知れるという説明にはなっていないことを主張する。

 

これは自然神学的な発想の否定であるが、ヒュームは物質的世界そのものに目的の内在を見いだす。物質的世界は秩序を持っているが、その秩序を自分自身が持っている。そしてこの事を想定するということが、それが神であることを想定しているということを主張しているのである。そして物質的世界にいるその自分自身として秩序をもつものとして生物(有機体)をとりあげるのである。

 

そしてヒュームは宇宙そのものと生物との類似性を考える。宇宙の絶えることのない循環、消耗と補充といったものは生物における自身の保存と対応する。つまり、宇宙には極めて濃密な「共感」があるとするのである。このようにして生物と宇宙、魂と神といった対応をみていくような、これは機械論のような外部から目的が与えられるものとは異なる、目的の内在するような物質観をヒュームは持っていた。

 

このような目的論的な問題はカントとの「独断のまどろみ」とはまた別の対立軸となっている(らしい)

 

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自我体験

自分というものが発見されるようになったのはいつの時代からなのかということに興味があります。

いわゆる自我体験は、日本人のかなりの割合の人が小学生から大学生の間に体験するようです。

 

この自我体験ですが、近代より前の時代ではそこまで頻繁に起こっていたものなのでしょうか。

仏教の教えなどを見ると、多くの人が世の中の苦しみを逃れるために仏教の道に入ります。

しかし、本来、仏陀が苦しんでいたのは生病老死であるなら、それは、苦難を感じて世を儚んで仏門にはいるその後の人たちと根本的に苦しみの起源が異なるし、それは、今日の自我体験とも異なっているのではないかと私は感じています。

つまり、私は自分が発見されるようになったのはつい最近のことであって、歴史上、我にかえったことは今までなかったのではないかと思えてくるのです。まあ、これを突き詰めるとすぐ独我論に行きつきますが。。

何度もこの問題に立ち返ってしまうのですが、結局、私を起点にものを見るとは果たして何を意味するのだろうということについて、現代ほどそれがわからなくなってしまう時代はないような気がします。

たとえば、犬に苦しみはない。なぜなら我々は犬を叩こうが犬がそれで泣こうが、それで犬が苦しんでいるということはわからないからだ。という主張は間違っているのでしょうか?私にはわかりません。同じ事が言語にもいえるような気がしています。言語で表現できないものはない、と言ってしまうことで、私は目の前にある「それ」が語る現象を語られるままに書き写すしかその存在を認められなくなってしまう気がしてしまうからです。

私は起点となりえない。私のもろさがこれほど露骨に現れた今日、容易く無意識に支配され、いくつもの人格へと分かれていく今日、めまぐるしく変わる環境に合わせて私を作り替えていく今日、分散しちりぢりになって漂う空虚を「日常」という言葉の暴力によって消し去ってしまった、そしてそれすら忘れてしまった今日。私はすでに起点とはなりえないのです。

しかし、それ以上に、「この世界」が起点とはなりえない。なぜならその実在性がすでにあやふやなものになりつつあるからです。

最終的にはここに集約されます。

 

「この世界を誰が見ているのか」

 

見ているとは、知っているということと同じでしょうか。かつてなら神が見ているとすれば良かったのですが、近代なら人間と言えば良かったのですが。そして、独我論者なら「私が」といえば良かったのですが。

 

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パノプティコン

なんでフーコーのお話をつらつらと書いているかというと、店先でたまたま買った大澤真幸の「生権力の思想」が大変面白かったからです。こういうことをちょっと感じると、今の世の中のことも少しはわかってこないかなぁという期待をこめて。。

 

フーコーによれば、近代になって、暴力を背景とした権力(死への権力)から、生きる事を管理する権力(生への権力)に権力の構造が変化したそうです。そこでは、前に述べましたどのように善く生きるかという倫理的な生き方(ビオス)から、生身の身体を含めたより動物的な(物理的な)生(ゾーエー)に権力の関心が移っています。

 

その典型例として、身体を統制させるために、人間の精神を制御する技術としてよく挙げられるのがパノプティコンという監獄です。この典型例がなぜ重要かというと、同じような仕組みによる権力の働きが、現代では学校や病院、会社等の身近なところにありふれているからです。

 

パノプティコンは簡単にいうと、中央に監視塔があって、その周囲に独房がある施設で、特徴的な点は、監視塔からは囚人が見えるけれど、囚人からは監視人が見えない作りになっている事です。

 

この仕組みによって次のような事が重要になります。囚人には監視人が見えないので、実際には監視塔に監視者がいるかいないかわからないのです。この事が見えない監視人による視線が常に囚人を縛る事になります。この一方的な(しかも監視者の見えない)監視が囚人を規律を自らに課すように精神を制御するのです。

 

ここで、この権力が必要としているものは、自分たちの命令に自律的にただ従うような従順な身体を持った人間です。そのために、見えない監視者を置く事で人の精神を制御しようとしています。

 

当然、精神の制御と同時に、身体への制御も行います。それは、生活の至る所に規律をもうけたり、空間を分けたり、集団を分けたりすることで、人間を細切れの部品のようにし、周囲の機械や無生物、システムとの複合体になじめるように作り替える事です。

 

思い出してみると、学校で履いた靴の色の違い、学年がフロア毎に違う事、時間割、朝の挨拶、こういったことは確かに身体の制御を目的としていることがわかりますね。社会に出たときに必要とされる会社員をつくるために必要だったのかもしれません。

ところで、道徳のようなものは大抵これなのでしょうか?しかし、道徳は西洋ではキリスト教が、日本では世間の空気のようなものが強い気がします。身体の制御技術と道徳の関係はどういったものなのでしょうか。

 

参考文献

大澤真幸「生権力の思想」

中山元「フーコー入門」

 

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生権力

古代ギリシアでは「生き方」という言葉に二つの言葉があったそうです。

「ビオス(bios)」と「ゾーエー(zoe)」という言葉です。

 

ゾーエーは通常の動物が生きるような自然そのものの生を指します。そこには自分の生身の「身体」も入ります。

一方で、ビオスはより文化的な生き方を指す言葉らしいです。例えば何が善いことなのかという倫理に従って生きるといったことです。

 

ギリシアを含め、政治が関心を持っていたのは常にビオスとしての生でした。

政治は、常にゾーエーの排除のもとで行われてきました。

 

西洋近代では、そのゾーエーと関わる「身体」に政治の関心がうつり、かつての死をちらつかせることで行使する権力から、

人を「生かす」ことへの技術を駆使する「生の権力(生権力)」へと権力の構造が転換しました。

 

このことを指摘したのがフーコーの「知への意志」です。

 

 

(本記事は大澤真幸「生権力の思想」に大部分を依っています。)

 

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