パノプティコン

なんでフーコーのお話をつらつらと書いているかというと、店先でたまたま買った大澤真幸の「生権力の思想」が大変面白かったからです。こういうことをちょっと感じると、今の世の中のことも少しはわかってこないかなぁという期待をこめて。。

 

フーコーによれば、近代になって、暴力を背景とした権力(死への権力)から、生きる事を管理する権力(生への権力)に権力の構造が変化したそうです。そこでは、前に述べましたどのように善く生きるかという倫理的な生き方(ビオス)から、生身の身体を含めたより動物的な(物理的な)生(ゾーエー)に権力の関心が移っています。

 

その典型例として、身体を統制させるために、人間の精神を制御する技術としてよく挙げられるのがパノプティコンという監獄です。この典型例がなぜ重要かというと、同じような仕組みによる権力の働きが、現代では学校や病院、会社等の身近なところにありふれているからです。

 

パノプティコンは簡単にいうと、中央に監視塔があって、その周囲に独房がある施設で、特徴的な点は、監視塔からは囚人が見えるけれど、囚人からは監視人が見えない作りになっている事です。

 

この仕組みによって次のような事が重要になります。囚人には監視人が見えないので、実際には監視塔に監視者がいるかいないかわからないのです。この事が見えない監視人による視線が常に囚人を縛る事になります。この一方的な(しかも監視者の見えない)監視が囚人を規律を自らに課すように精神を制御するのです。

 

ここで、この権力が必要としているものは、自分たちの命令に自律的にただ従うような従順な身体を持った人間です。そのために、見えない監視者を置く事で人の精神を制御しようとしています。

 

当然、精神の制御と同時に、身体への制御も行います。それは、生活の至る所に規律をもうけたり、空間を分けたり、集団を分けたりすることで、人間を細切れの部品のようにし、周囲の機械や無生物、システムとの複合体になじめるように作り替える事です。

 

思い出してみると、学校で履いた靴の色の違い、学年がフロア毎に違う事、時間割、朝の挨拶、こういったことは確かに身体の制御を目的としていることがわかりますね。社会に出たときに必要とされる会社員をつくるために必要だったのかもしれません。

ところで、道徳のようなものは大抵これなのでしょうか?しかし、道徳は西洋ではキリスト教が、日本では世間の空気のようなものが強い気がします。身体の制御技術と道徳の関係はどういったものなのでしょうか。

 

参考文献

大澤真幸「生権力の思想」

中山元「フーコー入門」

 

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生権力

古代ギリシアでは「生き方」という言葉に二つの言葉があったそうです。

「ビオス(bios)」と「ゾーエー(zoe)」という言葉です。

 

ゾーエーは通常の動物が生きるような自然そのものの生を指します。そこには自分の生身の「身体」も入ります。

一方で、ビオスはより文化的な生き方を指す言葉らしいです。例えば何が善いことなのかという倫理に従って生きるといったことです。

 

ギリシアを含め、政治が関心を持っていたのは常にビオスとしての生でした。

政治は、常にゾーエーの排除のもとで行われてきました。

 

西洋近代では、そのゾーエーと関わる「身体」に政治の関心がうつり、かつての死をちらつかせることで行使する権力から、

人を「生かす」ことへの技術を駆使する「生の権力(生権力)」へと権力の構造が転換しました。

 

このことを指摘したのがフーコーの「知への意志」です。

 

 

(本記事は大澤真幸「生権力の思想」に大部分を依っています。)

 

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