疲れ

疲れ果てて帰るとき、脳がくしゃくしゃになっているような気持になる。神経疲労というのだろうか。喋ることもできず身体を動かすのもつらくなる。腰が痛いのでリュックにしてみたのだが、なにも入ってないはずのリュックが肩に食い込んで痛い。

こんなに疲れているのに、家に帰りたくないときがある。いや、しょっちゅう帰りたくない。目黒駅から降りるとしばらく駅の構内に立っている。それからエスカレーターを上ってそのまま本屋へ向かう。

本屋で本を探していると、自分が答えを探していることに気づいた。本棚のどこかに自分の答えがあるのじゃないか、古典にはすでに答えがあるんじゃないか、あるいは流行の雑誌で有名人がさらりと解決してくれているのかもしれない。そんな風に答えを探している。

もっと疲れてくると、本屋で癒しの本を探し始める。「頑張らなくて良いよ」とか「心の鎮め方」のような本。一回読めば捨ててしまうような軽い本だけど、必要なときにピンポイントで慰めてくれる。日本は慰め消費大国だ。

 

そうしてよれよれで帰ってきて、あんなに帰るのが嫌だった自宅が結局一番落ち着くのがわかるのだった。

 

雑感

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自分たちが教育を受ける理由とは社会の要求に過ぎないのだろうか。学校はそういうシステムだったという。そうであるならば、軍隊のような教室も、個人の自主選択を促す教室も、みな似たようなものではないだろうか。私たちが自由であることを学校で学ぶことはできるのだろうか。おそらくそれは無理だろう。自由であることの意味を教えられてしまうから。

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人形の供養のように機械の犬たちが供養されるという。あらためて人間もまた機械であることを実感する。人間に感情があり知性があると思っているのは人間の都合であってそれはペットだろうと家畜だろうと同じだという理屈も成り立つ。境界線が薄れていく以上は人の命も同じ程度までには薄まるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

メッセージ

私たちは伝えたいことことがあればそれを伝えるメッセージを出す。

言葉の根源とはなんだろうか。それは例えば毒虫の黒と赤のマダラのようなものではないだろうか。その毒々しい姿をどう受けとるかはその虫と虫を見たモノの間の共通了解が生じるように思う。これは言葉の起源にならないだろうか。

虫は「私は毒を持っている」というメッセージを出し、それを見たモノはその虫には毒があると思う。だから食べようとする行動をやめる。

しかし、虫は意識がないのだとしたら、そのメッセージを知るはずがない。虫はメッセージの意味を知らない。そうなってしまうとこの虫と虫を見たモノの間にあると私には思われた共通了解はないのかもしれない。するとこの話はうまくいかないようにみえる。

 

そこで話を逆転させてみる。

仮に「虫に伝えたいことがある」とする。「虫に伝えたいことがある」ことが仮に正しいとするなら、「伝えたいこと」というのは虫の内部に存在すると考えるのは妥当だろう。なぜならこの虫くんが伝えたいのだから。虫くんが誰かに操られているならそれはこの虫にとって伝えたいことがあるとはいえないはず。

ここでひっかかるのは「虫に伝えたいことがある」という信念を誰が持つかだろう。それは行動をやめることになった見たモノか、この顛末を見ている私か。

 

整理すると

1. 虫は色でメッセージを伝えたい。

2.虫を見たモノは虫がメッセージを伝えたと思った。

3.虫を見たモノが虫を食べなかったことから私は虫がメッセージを伝えたと思った。

もう一つあった。

4.虫を見たモノが虫を食べなかったことから私は虫を見たモノが虫がメッセージを伝えていると思っていると思った。

虫という生物で考えたが、これは太陽、石、死者でも構わない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多言語ネットサーフィン

新しい検索方法を思いついたので紹介したい。

検索は主にWikipediaを使うとやりやすい。まず調べたい日本語のWikipediaの項目を読む。次にその項目の横にある英語版の項目を読む。その項目に見たことのない用語があればその項目に進む。その英語版の項目に対応する日本語の項目があればそれを読む。これを繰り返すと日本語のwikipediaのみ、英語のWikipediaのみでは発見できない項目を発見できる。

スライド2

 

このやり方を使ってgoogle翻訳を利用して他言語を混ぜることでよってより多様な項目が発見できる。また韓国語と日本語は翻訳しやすいので意味を理解しやすい。

様々な言語ではその言語の背景の文化独自の人物や興味の項目があり説明の量が異なる。そもそも日本語で検索したい言葉を書いて、それに対応する他言語の言葉が必ずしもあるとは限らず、その逆もまたあるからで、これらを波乗りのようにサーフィンすることで全く知らない知識を得ることができる可能性が広がる。

楽しいネットライフを。

 

掃除

三連休に部屋を片付けていた。僕の部屋はいわゆる汚部屋といってもよいくらい部屋が荒れている。大掃除をかねて部屋のゴミを捨てた始めた。

ものを一つ持ってきてはどこに置いたらよいのか考える。ごちゃごちゃしていたものが片付いてくるとそれが心の中まで整理されていくような気持ちに、掃除が少しだけ楽しくなる。

二日かけて机と床がみえるようになった程度だが、その間に考えたことがいろいろあり、やりたいことも出てきた。

しばらくやる気がなくなっていた日記をつけたり、家計簿にガス代を記録したりした。

ゆっくりとした一日がすぎてくれる。このタイミングなら自分でも生活に追われずに生きていけそうな気がした。

自分を大事にする下地のようなものを作ることができたのだから。

どんなものもお金によって媒介されるとすると、この金によって媒介されないものとは一体なんなのだろう。

どんなものも、定義からはお金に媒介されるはずなのに、その前提がなりたたないもの。

百万円をつまれてもお金で買えないものを前にして、それは三つのパターンがある。

一つは百万では買えないほど価値が高いというもの、

もう一つは百万の価値がそれに比べると随分価値が低いというもの

さらにもう一つは、比較が不可能だからそもそも買えないというもの。

 

 

なかったもの

私が私と対話することと、私が思うこと、私が独り言をいうこと、私がクマのぬいぐるみに話しかけること、私が神に告白すること、私が目が覚めて最初につぶやくこと

「私」という言葉は奇妙で、私は私を指しているだけなのに、皆は皆、それぞれのことを考える。だから私には二つの意味がある。私からみたあなたにとっての私と、私という私と。

一番重要そうなこの言葉自体がすでに分裂しまっている状況では、「私とは何か」という問題にこたえることはできないようにも思える。これは「人間とは何か」という問題ではなかったはずだ。「どう生きるか」という問題でもなかったはずだ。「善」の問題でも、「この世界」の問題でもなかったはずだ。決断の問題でも、状況の分析でも、理想でも現実でもない。もちろんあなたでもない。「私」の問題だ。

では、これは誰に向かってなんのために話しているのか。結局、この話は冒頭に戻っていく。

 

 

 

流されること

また、考えることが麻痺してきている。いつものように日常に流されていると感じている。流されながら何かを思っていれば良いのかもしれない。けれど、この流れの中にあるときは何も記憶がないのだ。いや、日常としての記憶はある。感情もある。面倒だ、気分が良い。いらいらする。眠い。そういう感情もあるし、その感情の記録もある。けれど、そこに自分がいない。自分はふと我にかえるときにはじめて顔を出してくる。そのとき、はじめて、自分がそういう感情があったことをぼんやりと思い出す。よく、もう一年がこれしかないよと人に言ったり、自分で思ったりすることがあると思う。そういうとき、そのようなことを言った回数をどこかに記録してみると、おそらく、一年のうち、本当に麻痺していなかった瞬間の回数がわかる。おそらく年に数回だ。それ以外は、自分たちはまるで機械のように働き、人形のように歩き、魂はどこにもない。

感情は揺れ動く猛獣のようだ。私を常に動かし、服従させ、その行動を促すものだ。私が感情のままに動くとき、私はそのものは感情ではない。

感情のままで動く事と内省をすること、この両面はぶつかり合いを起こす。爆発するような雰囲気が物事を動かす。

しかし、普通の人と呼ばれる人は、この感情のままの動きも内省をすることもしていないようにも見える。そうした彼らにとっての生活の楽しみや苦しみというものがなんであるか、いつか知りたいと思った。

おしゃべり


ピストルをコメカミにあてる。6人いればそのうち1人しかいきのこらない。引き金がひかれ1人だけがその場に立っている。生き残った人は静かに語り出す、自分が生き残れた理由を。それは引き金を引いたからである。自分がいかに決意しこの場にきたのか。

素朴な圏論(3) 逆射

三日坊主の三日目に突入した。この文は圏を学び始めたある一丁の豆腐の書いたメモにすぎません。

エピは入り口をエピ射で閉めてやると同じ振る舞いをする射は同じ射であるという機能を持つ便利な射がエピ射であった。

エピ射fとして

f;g=f;h ならば g=h 

みたいなやつである。

モノは反対に出口をモノ射で閉じてやると同じ振る舞いをする射が同じ射であるという機能を持つ射だと思う。

今回は、3かける1/3が1になるように、射の合成が恒等射になるような、1/3(逆数)にあたるものを考えたい。

ただ、射の合成はかけ算のようにf;gがg;fであるとは限らない(可換性があるとはいってない)ので、入り口と出口のどっちがわに掛けて恒等射が得られるのかで2通りある。

つまり、

(その1);g = id

となるようなやつと

g;(その2) = id

となるようなやつである。それぞれ右逆射とか左逆射とかいわれるものだが今合成をf;gとしているため、他の本でg○fとしているときと左右が逆になりそうなのでここではこだわらず、右逆射かつ左逆射でもあるものを単に逆射と呼ぶということですましておく。
(ちなみにf;qは図式的な合成の書き方、g○fを関数的な合成の書き方に親しい。今後もわかりやすく混載して書く。)

つまり、fの逆射f^-1は

f^-1;f=id

f;f^-1=id

である。fがA->Bとすると、上下の恒等射idはそれぞれid_Bとid_Aであることに注意。

この時、fの方をisoと呼ぶ。そういうfで結ばれる対象A,Bはisoな関係(isomorphism)であるといったりする。
(epiかつmonoがisoであるというわけではない。)

今回は、要するに逆数っぽいことを射でやりたい。これが逆射で、逆射があるような射をisoと呼ぶということをまとめてみた。

具体的に、epi,mono,isoの例をあげたり、チェックをするにはどうすれば良いのか。

epiの定義の対偶は二つの異なる射はエピ射で入り口を閉じてやっても同じにならないというものだからこのあたりからだろうか。

ちなみにもし、fがisoなら

f;g = f;h

のときに左からf^-1を合成して

f^-1;f;g = f^-1;f;h

id;g = id;h

g=h

となるので、isoならepi、同じようにisoならmonoになる。しかし、逆にepiかつmonoだからといってisoになるとは限らない。