分断される個人

普段は自民党を支持していないけれど「長時間労働を是正し、同一労働同一賃金を実現し、『非正規』ということばをこの国から一掃していく」という言葉には期待したいものがある。非正規な働き方が普通になる事での解消でも構わない。なぜなら本当の問題はレッテルにあると思っているから。

現在の日本では非正規は分断される。バラバラに分解され責任は剥奪され、分割された仕事を渡される。そしてここでの存在をあなたの存在にしてはいけないということが書かれていないメッセージとして渡されるのだ。なぜなら、そこでは私は単なる道具であり、道具としての人生なのであるから。

現在の自分の認識では非正規ではなくフリーランス、非正規ではなく正規の社員を目指すべきだろう。

 

他人

昨日からアジア人差別の問題をきっかけに、日本人の移民の歴史とか色々検索していた。

アジア人の移民の多い国では、移民が下層の仕事を請け負うことから差別感情が生まれるように思う。

仕事に貴賎はないというのがお題目であることがよくわかる。しかし、仕事のそういった側面はタブーのように語られることはない気がしている。

 

最近、他人がどうにも怖くなってきている。突然近くの人が怒鳴ってくるのではないかという緊張がとれない。そんなことはありえないと思っても、何かトラブルになってしまいそうなむっとしている人は多いように感じてしまう。

海外では日本以上にそのような緊張を伴うのではないか。そもそも日本が最近平和であったほうが偶然で、本当の世界は自分の考えるよりもっと殺伐としたものなのかも。

 

それでも、そうではない人が世界中にいることを願ってしまう。

宗教

自然の神秘性を感じることなく生きることは私には不可能に見える。

ある意味で、この世界が本に記述された活字の中の世界であったとしても、

その舞台で私がたとえ自由意志を持たずに生きているのであったにしても、

どう生きるかはそれらの背景とは無関係だと現代の人々は考えているようである。

なぜ、無関係なのかは私には理解できないが、彼らは信念としてそれを持っているので

相対化して考えることは決してしない。彼らにとっては彼ら自身の目の前に起きる変化こそが

重要である。それがどのような背景で生まれているのか、そもそも彼らは何なのかについて興味をもたない。

 

しかし、ではなぜ、宗教はこれほどの力を持ち得たのだろう。宗教はなぜ世界を説明しようとするのだろう。

 

理性が、神を殺し、人間を独立させたようにみえた。しかし、次の時代に来たのは非理性だった。非理性の後にきたのは欲望だった。欲望が神に背を向けさせたとするなら、人間は自身の欲望の解決のために人間同士で取引をし、調整をするようになる。神のいない世界での平和は欲望の駆動の上で行われるようになる。あらゆる倫理は欲望の言い換えとなる。あらゆる言葉は欲望の表現となる。

そこでは自然の探求も神への信仰も欲望のために(例えば自己満足という欲望のために)していると解釈される。多くの人間は、そこで、その人が自己満足でやっていることを表明することを求める。自己満足でやっているという言葉で人は非難をうけると同時に、自己満足でやっていることを告白しなければならないという要求をつきつけられる。誰かを助けるということですらそのような状況である。

 

私たちは自己満足のために誰かを助けるということを告白しなければならない。

それが本当かどうかは問われない。多くの人間がそれを真としているのである。

それは自分たちがそうであるからである。

 

しかし、ここに、多くの人間が、それでも自分と同じものを他人にも見ようとする姿勢をみることができる。それは、自分と同じものとしか他人を見ることができないという面もあるのだが、共感できることを少しでも探そうとする暖かさのようなものも感じ取ることができるのではないだろうか。たとえそれが間違いだったとしても多くの人間はそのようなある意味での不器用なやり方で、欲望に突き動かされながらもその欲望という共通点を認めあうことでささやかに欲望を超えた何かを持っているのだ。

 

 

 

 

眠り

祝日にひたすら数学書を眺めていた。読むというよりただ眺めていた。代数多様体なるものがあるらしい。他人の考えた高度な数理的事象をただなぞっているだけともいえる。さてそれは自分の人生を生きていることになるのだろうか。しかし小説を読むこともテレビを見ることも同じであるような気もする。同じ程度には私にとって娯楽なのだろう。

自分にとって一日を終わらせるというのがなかなか難しい。なのでここでこのようなものを少し書いている。何かが一日を終わらせることに抵抗しているのだ。といいながらもなんとなくその 理由はわかっている。この一日が私の主体的なものであったか。その質が常に眠る際に問われているのだ。

 

 

 

 

 

自己コントロール感

生きよと誰かが言ってくれたから自分は生きているのだろうか。

 

 

自分が生きていることを実感したりすることは、普通の生活ではそこまではないのが一般だろうと思う。では実感するときはどのような時だろうか。それは自分が自分自身をコントロールする術が失われた時ではないだろうか。つまり、生きていることを実感するのではなく。生きていたことを実感する。

さて、ではその生きていることそのもは自身でコントロールしているものだろうか。少なくともそれを行使する権限を自身が持っているとしたなら、冒頭の問題に突き当たる。

 

 

 

匂い

「声」が届けられたとして、私がそれに「声」で返すとする。相手はそれでここに応答が成り立っているし、私が応じていたのだと思うだろう。

場には幾つかの不確定な要素がある。その一つとして匂いがある。匂いは今では信号としての役割を持っていない。しかし、私たちの「会話」の中の全体に掛かるバイアスとして匂いが作用している可能性はないだろうか。

匂いは場をゆっくりと漂う。それは何かかから発していることもあり、複数の様々なものとの複合として場の匂いを作っていることもある。落ちつかせる匂いや、郷愁を誘うような匂いもある。いずれも急激な変化はしない、ゆっくりとその場にあり、場の雰囲気を作るものだ。

鉤括弧で括っている「声」、「会話」を例えばチャット上のメッセージと考えてみる。その場に匂いとして対応するものはあるだろうか。ざわめきでも、水面の煌めきでも表現しえない機能として。

 

 

 

 

最近気になっていることがある。窓の向こうから母親の声がするのである。おそらく娘に対して毎朝その声が聞こえている。

食事の用意ができた。早くしなさい。

階下にいるのだろうか。

私はそれを光のうっすらとさしているカーテン越しに聞いている。

 

 

メール

*1

この手紙はだれに届くのだろう。そう考えて宛先をわざと隠す。ボトルに入れたメールを海へ流したとき、そのボトルに入っている手紙には必ず書いた人のアドレスが入っている。誰かに届いて欲しいとつぶやいた人は、その人が誰であるかを本当は認知して欲しいのだ。そのボトルの中にはなにが書かれていようと、意味は一つしかない。「私がいます。」この私は匿名ではない。

 

*2

匿名であること、宛先がわからないこと、送り主がわからないこと、これらはそれぞれが異なる意味を持っている。メールが物理な意味合いが薄まってくると、出せる数もまた変わってくる。WEBのサービスも物理世界でのサービスもみな、なんらかのメールの亜種にすぎない。

*3

誰も配達していないのにメールが届くことをもはや疑う人はいなくなった。電磁場という不可思議な存在もなぜかその意味を問う人がいないままに受け入れられた。おそらく太陽がギラギラと頭上にある奇妙さと同じ程度には現代の人々には受け入れられてしまったのだろう。息を吸って吐くような自然さとして。意識しなくなって背景となったものとして。決して生活の中にはでてこないものとして。そして、たとえ気づいたとしても。

*4

いつでも私たちはメールの中身にしか興味がないことになっている。そこには誰かの噂や、今日買った商品の注文票、広告、生活の記録、悩み、告白、そういったものが書かれている。そういったものが書かれていることになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感情

感情はそれぞれのからだのどこからくるんだろう。そのどこかはもしかするとバラバラなのかもしれない。喜び、怒り、哀しみ、楽しさというものが一つの「感情」という言葉で表されるのが本当はおかしくて、バラバラのものを無理に一つの言葉で書いてしまったということはありえないだろうか。

 

たとえば、「イライラ」って喜怒哀楽のどこに入るのだろう。怒りのような気もするが少しズレている気がする。むしろイライラするから何かのキッカケで怒ってしまうように思える。たとえば、「心配」は喜怒哀楽のどこにも属してないようにみえる。感情の手前にあるイライラ、ソワソワといったものと喜怒哀楽は原因と結果みたいな関係なのだろうか。

 

感情はそれだけではうそでもほんとでもないし、良いことでも悪いことでもない、美しくも醜くもない。それぞれの感情があったりなかったりするものだとしたら、もっと別ないくつもの軸を付け加えるものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

疲れ

疲れ果てて帰るとき、脳がくしゃくしゃになっているような気持になる。神経疲労というのだろうか。喋ることもできず身体を動かすのもつらくなる。腰が痛いのでリュックにしてみたのだが、なにも入ってないはずのリュックが肩に食い込んで痛い。

こんなに疲れているのに、家に帰りたくないときがある。いや、しょっちゅう帰りたくない。目黒駅から降りるとしばらく駅の構内に立っている。それからエスカレーターを上ってそのまま本屋へ向かう。

本屋で本を探していると、自分が答えを探していることに気づいた。本棚のどこかに自分の答えがあるのじゃないか、古典にはすでに答えがあるんじゃないか、あるいは流行の雑誌で有名人がさらりと解決してくれているのかもしれない。そんな風に答えを探している。

もっと疲れてくると、本屋で癒しの本を探し始める。「頑張らなくて良いよ」とか「心の鎮め方」のような本。一回読めば捨ててしまうような軽い本だけど、必要なときにピンポイントで慰めてくれる。日本は慰め消費大国だ。

 

そうしてよれよれで帰ってきて、あんなに帰るのが嫌だった自宅が結局一番落ち着くのがわかるのだった。