人間とは何だったのか

神は死んでいた。人間は誰が殺したのだろうか。人間が死んだことを告げまわっているのは誰なのだろう。

私たちはずっと知っていたことがある。それは人間を機械とみなす大昔の考え方からそうだった。そこで人間と機械を分けるものは自分の自我しかない。すると、他人を機械からわけるものは何だったのだろうか。

例えば機械は模倣して造られたものだが、人間は造られたものではない。
では、機械が自ら人間に近い姿に発生する可能性はないのか。
イルカのようにそれは可能に思われる。

一方で、機械が人間に近い姿に発生する環境といったものは何なのだろう。
イルカにとっての海のようなものだろうか。

機械がこれから獲得しようとしているものは不合理であることは間違いないだろう。
不合理や矛盾を抱えたまま疾走できる身体を持つことで
その思考はより発見的、創造的なものになっていくだろう。

そういった苦悩や喜びを持つ機械、知能といったものは部品化されて空間に埋め込まれるだろう。
私達の街は感情によって埋め尽くされる。
誰かの思考は脳内ではなく街路を伝って展開していく。

一つの生命とは無関係な自我のようにみえるものが連続的に、非局所的に存在するようになる。
そこでは個という感覚が消えていくだろう。
人間が死んだとしたら、そういった個が消えていくこと、もしくは個という価値が消えていくことが条件なのではないかと感じている。

さて、機械が身体を持ち、自ら思考していくことは機械が人間になる方向であった。
しかし、知能が世界を埋め尽くす方向は人間が消えていくというこれとは逆方向の変化である。
前者において死んだ人間とはなんだったのか。それを嘲笑うものは誰だったのか。
後者において死んだ人間とはなんだったのか。それを嘲笑うものは誰だったのか。

このあたりがそろそろわかってくるのだろうと思っている。

神なき祈り

神を信じないものにとって祈ることは可能なのだろうか。

祈ることは神に対してだけだろうか。例えば、先祖の霊についての祈りといったものは祈りの対象は神ではない。

 

 

僕としては祈りとは向こう側にある神秘に向かっているのではないかと思っている。

例えば他人。他人に何かが伝わる事。これは神秘ではないかと思う。

伝わるかどうかすらわからないとしたら、その人が発する言葉というのは常に、祈りが込められているのではないか。

不確実なものに対する思い、不確定なものに対する思い、知らないことに対する思いといったものは神秘につながっていく。

僕たちはいつも色々なものを信じている。信じている対象への行為というのはつまるところ祈りなのではないか。

 

行為の一つ一つは祈りである。何に対して?、歩くこと、触ること、喋ること、世界に働きかけること。

(では、僕たちは本当に歩いているのだろうか、本当に触っているのだろうか、本当に喋っているのだろうか、

僕たちは何処を歩いているのか、今、本当は何を触っているのだろうか、誰に何を喋っているのだろうか。)

(考えようと思えばすり抜けていくこれらは「事実」としかいえない。これを僕達は信じていたのだ。なぜかはわからないけれど。)

 

神がいないのになぜか「ある」世界の奇妙さに震えてただこの世界の現象の向こう側に祈りを捧げる。((なぜか僕は知覚し、今ここに存在し、消えていく。)) (私たちはいつもカードが配られている。そのカードがなぜ配られるのかはわからない。)

 

世界は神なき祈りに満ちている。

 

 

 

分断される個人

普段は自民党を支持していないけれど「長時間労働を是正し、同一労働同一賃金を実現し、『非正規』ということばをこの国から一掃していく」という言葉には期待したいものがある。非正規な働き方が普通になる事での解消でも構わない。なぜなら本当の問題はレッテルにあると思っているから。

現在の日本では非正規は分断される。バラバラに分解され責任は剥奪され、分割された仕事を渡される。そしてここでの存在をあなたの存在にしてはいけないということが書かれていないメッセージとして渡されるのだ。なぜなら、そこでは私は単なる道具であり、道具としての人生なのであるから。

現在の自分の認識では非正規ではなくフリーランス、非正規ではなく正規の社員を目指すべきだろう。

 

自由戦略

自由が選択肢としてのみ与えられる時代にとっては大量の選択肢に足をとられない人、衝動を抑えられる人が強いことになる。

撹乱すること自体が目的の選択肢を選択肢爆弾と呼ぼう。自由というゲームの中で有効な戦略をつねにとるには、暴力を変換しなければならない。

殴ること、無法であること、道徳的であること、これらは同一の地平にある。(今やそれが自由という言葉もそこに投げ入れられることとなった。これは自由という言葉自体の意味をスライドさせていくことというもう一つのゲームが行われているということだ。)

((ゲームのルールに則ってゲームをすることの何が問題だというのだろう。それが自然であり、それが戦争であり、それが無法者の掟であり、それがビジネスだ。このような意見に極めて違和感を感じる。ゲームに従う理由は何故だろうか。理由のないルールに従う必要はあるのだろうか。))

 

 

 

 

 

ソクラテスの弁明を眺めて 2

「善導」と「 躾け」は原文では同じという指摘があり恥ずかしさに身悶えしている。

(ちなみに読んでいるのは岩波文庫の久保勉訳です。)

 

でもせっかくなので続ける。ちなみに以下も私が理解したところの作文であり、抜き書きの引用ではないです。実際はまどろっこしい問答になっています。引き出すところが重要なのだと思いますがまどころっしいのでまとめます。

 

メレトス:「ソクラテスは無神論者であり、若者に国家の神々を信じずに神霊を信じるように教えている。これは若者を腐敗させる。」

ソクラテスの弁明:「いや、神霊の働きを信じてるって言いましたよね。ということは神霊も信じてます。で、神霊を神々(か神々の子)と解釈してください。矛盾ないですよね」

 

メレトスは認めてしまっているが、神霊と神々の間の関係がそのようであるという理由もない。そもそも、ソクラテスが無神論者でないという証拠もない。

 

ところで議論では神霊の働きを信じることは神霊を信じていることになるとメレトスの同意を得ている。ここも同意するところではない気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソクラテスの弁明を眺めて

なぜか読み始めた。非常にもたもたした文章で確かに弁明しているなという気がする。

 

最初の弁明

 

メレトスの主張:皆、若者を善導(善良に導く事)しているのにソクラテスだけ腐敗させている!

ソクラテスの弁明:動物は多くのものから躾けられるより1人に躾けられる方が良いでしょ?

 

これは多くのものが腐敗させ、私こそが善導している、善導と躾けが似たようなものであるなら、躾は一般的に一人にやらせたほうが良いからだ、そして現に今、私一人がそうやって善導している事態なのだということを主張している。

しかし、躾けが一人にやらせたほうが良いとしても、善導においても一人にやらせたほうが良いという結論になるのだろうか。

 

まとめる。

疑問:躾けと善導のアナロジーは「一人にやらせたほうが良い」においても成り立つのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

他人

昨日からアジア人差別の問題をきっかけに、日本人の移民の歴史とか色々検索していた。

アジア人の移民の多い国では、移民が下層の仕事を請け負うことから差別感情が生まれるように思う。

仕事に貴賎はないというのがお題目であることがよくわかる。しかし、仕事のそういった側面はタブーのように語られることはない気がしている。

 

最近、他人がどうにも怖くなってきている。突然近くの人が怒鳴ってくるのではないかという緊張がとれない。そんなことはありえないと思っても、何かトラブルになってしまいそうなむっとしている人は多いように感じてしまう。

海外では日本以上にそのような緊張を伴うのではないか。そもそも日本が最近平和であったほうが偶然で、本当の世界は自分の考えるよりもっと殺伐としたものなのかも。

 

それでも、そうではない人が世界中にいることを願ってしまう。

宗教

自然の神秘性を感じることなく生きることは私には不可能に見える。

ある意味で、この世界が本に記述された活字の中の世界であったとしても、

その舞台で私がたとえ自由意志を持たずに生きているのであったにしても、

どう生きるかはそれらの背景とは無関係だと現代の人々は考えているようである。

なぜ、無関係なのかは私には理解できないが、彼らは信念としてそれを持っているので

相対化して考えることは決してしない。彼らにとっては彼ら自身の目の前に起きる変化こそが

重要である。それがどのような背景で生まれているのか、そもそも彼らは何なのかについて興味をもたない。

 

しかし、ではなぜ、宗教はこれほどの力を持ち得たのだろう。宗教はなぜ世界を説明しようとするのだろう。

 

理性が、神を殺し、人間を独立させたようにみえた。しかし、次の時代に来たのは非理性だった。非理性の後にきたのは欲望だった。欲望が神に背を向けさせたとするなら、人間は自身の欲望の解決のために人間同士で取引をし、調整をするようになる。神のいない世界での平和は欲望の駆動の上で行われるようになる。あらゆる倫理は欲望の言い換えとなる。あらゆる言葉は欲望の表現となる。

そこでは自然の探求も神への信仰も欲望のために(例えば自己満足という欲望のために)していると解釈される。多くの人間は、そこで、その人が自己満足でやっていることを表明することを求める。自己満足でやっているという言葉で人は非難をうけると同時に、自己満足でやっていることを告白しなければならないという要求をつきつけられる。誰かを助けるということですらそのような状況である。

 

私たちは自己満足のために誰かを助けるということを告白しなければならない。

それが本当かどうかは問われない。多くの人間がそれを真としているのである。

それは自分たちがそうであるからである。

 

しかし、ここに、多くの人間が、それでも自分と同じものを他人にも見ようとする姿勢をみることができる。それは、自分と同じものとしか他人を見ることができないという面もあるのだが、共感できることを少しでも探そうとする暖かさのようなものも感じ取ることができるのではないだろうか。たとえそれが間違いだったとしても多くの人間はそのようなある意味での不器用なやり方で、欲望に突き動かされながらもその欲望という共通点を認めあうことでささやかに欲望を超えた何かを持っているのだ。

 

 

 

 

普遍的な知能

我々が身近に感じる概念として、

古くは人間と世界を物質とみなす論から、機械とみなす論へ、それからコンピュータ(計算機)とみなす論まで至った。最近は人間と世界が人工知能であるとみなす論が流行るのではないか。普遍的な知能としての。

モナドのように。

 

情報

情報が希少性から効率性に変化した時代になってきた。そこでは2次的な情報が元の情報そのものより重視される場合がある。情報は今や速度を持つようになる。知識への速度を。